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コンセプトノート

748. 身だしなみとしての上機嫌

不機嫌臭・説得臭・軽視臭

齋藤 孝 『不機嫌は罪である』(KADOKAWA、2018年)に、強く頷いてしまう文章がありました。

(略)社会人向けの講演やセミナーを行うなかで、「ああ、この人は不機嫌に見えるな」と思う人にたびたび出会います。(略)とりわけ中高年の男性に顕著です。(略)男性だけの講演では、会場の空気は固まっていて、反応があまりありません。なんだかムッとして見え、「どれほどのものか」といった値踏み意識が感じられる場合も少なくありません。  ただ、実際講演が終わって感想を聞いてみると、男性一人ひとりからは「すごく興味深い話でした」「こう思いました」という反応が返ってきます。(略)特段不機嫌というわけではないのに、不機嫌に見えてしまうのです。いわば「加齢臭」ならぬ「不機嫌臭」が発生している状態です。

不機嫌臭とは強烈な比喩です。本人は気づかなくても相手は気になる点、原因があって抑えることができる点で、的確な比喩でもあると思います。

幸か不幸か、自社の主な顧客層も、わたし自身も、齋藤氏から不機嫌臭が「とりわけ顕著」と指摘されているゾーンにいます。そこで豊富な事例を活かして「特段○○というわけではないのに、○○に見えてしまう」ような状態が他にもないか考えてみました。

まず「説得臭」。自分の考えを述べただけなのに、相手はむりやり納得させられていると感じるようなケースです。長ずるにつれて上の立場で考えを述べることが多くなりますし、意見そのものの説得力が高くなります。すると、本人はずっと同じスタイルでコミュニケーションをしていても、相手の受け取り方が違ってきます。

たとえば立場が同じ人同士の議論で「私はこう思うけど、皆はどう?」と言うのと、部長が部下を集めて「私はこう思うけど、皆はどう?」と言うのとでは、意味合いがずいぶん違います。後者の状況では、部下から「部長の考えはおかしいですよ」とは、なかなか言えません。なので、黙っている。すると「特に意見がなければ、これでいこう」と、決められてしまう。

立場が関係ない状況でも、知識も経験も豊富な人がよく練って述べた意見は、「正しすぎて」説得臭を感じられることがあります。Aさんの改革案は、組織の理念にも沿い、また論理的にも妥当な案なのだろうけれど、弱者たる自分の気持ちを汲んでくれていない。Aさんほど賢くも強くもない自分には過酷すぎる。そういう、表だって言葉にしづらい思いを届けられなかった相手は、やはり説得臭を感じることでしょう。

次に「軽視臭」。ちゃんと話を聞いて理解したはずなのに、相手は自分が軽んじられたと感じるようなケースです。これには構造的な理由もあるでしょう。職位が上がるにつれて、個々の部下に割ける時間は減る一方で部下の期待は上がります。

以前、男性のマネジャーから「女性の部下に手を焼いている」という相談を受けたことがあります。仕事上の悩みを吐露されるので、話をよく聞いて、取るべき行動についてアドバイスを与える。しかし一週間もしないうちに、同じような悩みを持ち込まれたうえに、解決策を提示しても「私の悩みをわかっていただけていない」などと言われてしまう。どうしたらよいのか、という話でした。

男女の違いに起因する問題ではないかもしれませんし、部下自身に問題の原因があるかもしれません。ただ結果として起きているのは、部下が「上司はわかってくれていない」と感じていることであり、形は違えど似た話を聞くことがあります。

また、やはり立場が関係ない状況でも、経験を積んだことで「言いたいことはわかる」「長い目で見れば大きな問題ではない」「後から振り返ればいい経験だ」といった思いがにじんでしまうこともあります。それは本当かもしれませんが、相手は「真剣・親身に聞いてくれていない」と思うでしょう。

身だしなみとしての上機嫌

黙っていれば「不機嫌臭」。口を開けば「説得臭」。耳を傾ければ「軽視臭」。身動きが取れない感じになってしまいました(笑)。

では、どうするか。著者は『40歳を過ぎたら、普通にしていても不機嫌そうに見える。上機嫌くらいでちょうどいい』と述べています。

自分は変わらないつもりでも、見た目や立場や能力が変われば、他人が受ける印象は変わる。逆に言えば、何年も変わらない人、たとえばいつも謙虚だと感じる人は、一貫して変わらないのではなく、常に変化しているのです。自分の言動が周囲に与える影響を注意深く観察し、鏡として用い、言動を調整し続けることができているのでしょう。

鏡のメタファーは、以前に書いた「こころの身だしなみ(『毎朝、鏡を見るように』)」、さらには「心証のマネジメント(印象のマネジメント、心証のマネジメント)」という言葉を思い出させてくれました。どちらも気分 (mood) のマネジメントについての心がけであり、いつもとはとてもいきませんが、意識するようにはしています。

著者はまた、本書で伝えたいのはただ一言、『現代では「職業としての上機嫌」が求められている』ことだと述べています。「職業としての上機嫌」は社会学者マックス・ヴェーバーの「職業としての政治」「職業としての学問」になぞらえた奥深い命名のようですが、わたしとしては先述の経緯を踏まえて「身だしなみとしての上機嫌」という言葉で意識したいと思います。単に見苦しくない程度にととのえるだけでなく、すこし派手にというか、それとわかる程度の上機嫌を意識してみようということです。

具体的なやり方については、いくつかアイディアがありますので、現場で試してまた報告したいと思います。