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コンセプトノート

767. 欲望、意欲、意志

意欲は、意志と欲望の間にある

マネジャーの悩みの代表格は、意欲(モチベーション、やる気)です。だいたいは部下の意欲を高めたいという悩みですが、自分の意欲も高めたいという悩みもうかがうことがあります。

この「意欲」という言葉が字面的にも意味的にも「意志」と「欲望」の中間にあるという面白い指摘を、碩学山崎正和の渾身作『リズムの哲学ノート』に見つけました。「欲望、意欲、意志の鹿おどし構造」という項から引用します。

言葉というのは便利なものであって、日本人はたまたま国語に「意欲」という言葉があったことの偶然に、感謝しなければならないかもしれない。この単語が「意」と「欲」の二語からなり、意味のうえでも意志と欲望のあいだにあることが便利なのである。じっさい道徳的な用語法でも、意欲という言葉は中立的な位置を占めていて、欲望の放埒さとも意志の厳格主義とも明白な違いを感じさせるのである。 (p186)

山崎正和の渾身作『リズムの哲学ノート』

「欲望、意欲、意志の鹿おどし構造」は、欲望が意欲となり意志となって溢れ出るさまの、このうえなく端的な描写に感じられます。

欲望 → 意欲 → 意志

欲望は自然発生的に浮かんでくるもので、意志は人が能動的に定めるもの。意欲は両者の中間にあって、欲望を捉えて意志を確立させるもの。山崎はその関係性をていねいに論じた後、鹿おどしの喩えを深めます。

 このように見てくると、欲望、意欲、意志の移行関係は、じつはそのままリズミカルな運動をかたちづくり、みごとな鹿おどし構造さえみせていることがわかる。欲望の受動性が強さを増すことによって、その力は意欲という名の水受けを満たし、ある限度で鹿おどしが跳ねるときに受動性は能動性へと反転する。鹿おどしの役割を果たすのはあくまでも意欲であって、意志はそれが引き起こす音の響き、および水受けから跳びだす水そのものに喩えるべきだろいう。

同上

(ちなみに意志が起点、つまり意志が行動(身体)を支配するという自由意志論は、神経学者や哲学者によってあらかた否定されていると思います。山崎氏も、シンプルな論理でそれにならっています。たとえば、旅行したとする。これは旅行するという意志を定めて行動に移したように感じられるが、その意志を立てたのは誰かと考えると、これは無限遡行に陥ってしまう。だから『人間の意志は随時、随所に芽生えるほかはない』、というわけです。)

意志が強い人はそう見えるだけで、実は……

意志と欲望というペアから、アメリカのニュースサイト Vox の『セルフコントロールの神話』という記事を思い出しました。

旧約聖書によれば、人類最初の罪はイブが知恵の樹の実を食べたこと。これは実を食べるまいという「自制心」が食べたいという「誘惑」に負けた罪であり、人類の歴史は実に自制心との戦いである……といった魅力的なオープニングの記事でした。自制心と誘惑は、それぞれ意志と欲望とに置き換えてよいでしょう。

誘惑に負けず課題を達成する人たちは、どのように誘惑と戦っているのか。そういった研究からわかってきたのは、次のような点だそうです。

  1. 自制心のある人は、私たちが抵抗する活動(健康的な食事・勉強・運動など)を実際には楽しんでいる
  2. 自制心のある人は、自制心を発揮しなくて済むような習慣を作っている
  3. もともと(性格的に)誘惑を感じにくい人もいる
  4. 経済的に余裕がある方が自制しやすい(困窮すれば目の前の報酬を重視せざるを得ない)

意志が強いとみなされた人は、(1)その課題を楽しんでいたか、(2)誘惑に出会わないよう工夫していたか、(3)もともと誘惑を感じづらい性格だったか、(4)誘惑を感じづらい環境にあった。悪魔の誘惑に耳をふさぎ、歯を食いしばってがんばり抜いたといった、“意志の力”と聞いてふつうイメージされる力を発揮して課題を達成した人は、どうやらいなかったようです。

このような意志と欲望の関係は、ジョナサン・ハイトが『しあわせ仮説』で述べた「象使いと象」の関係を思い出させます。大まかに言えば、意識的な思考とは無意識という象に乗った象使いのようなもので、象使いは自分が象を動かしているつもりになっているが、実際には象が気ままに歩き回っているのを後から承認している、という喩えです(参照:「人=象に乗った猿」)。

仕事の意欲をどのように作っていくか

最初のお題に戻ります。仕事への意欲をどう作っていくか。先述の4項目のうち(3)と(4)は変えづらいので、前二者に絞って考えてみます。

(1) 仕事の課題を本人の欲求、つまり面白さ・楽しさと結びつける。何をやるかは変えづらいとしても、どのようにやるか、誰とやるか、いつ・どこでやるかといった因子を工夫して、面白さ・楽しさが見つかるようであれば、それは意欲に結びつくでしょう。象が楽しめるようにせよ、ということです。

(2) 意欲を削ぐ因子を減らし、意欲を高める因子を増やす習慣を作る。意志力ゼロという前提に立ち、できるだけ「がんばらない」で仕事を進められる工夫をします。象の視界からおもちゃを遠ざけよ、ということです。

結局のところ、手軽な方法はあまりないようです。悪魔のささやきをはねのけられるといった意味での意志力を期待しない、欲望 → 意欲 → 意志 の鹿おどし構造を意識する、この二点を前提に次の案件に取り組んでみたいと思います。