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コンセプトノート

386. 意志決定の手本となる(あの人なら、どうするだろうか)

複雑な意志決定にあたって、「あの人なら、どうするだろうか」と考えてみると新たな視点を得ることができます(「よい意志決定のための相談相手を育てる」)。「あの人」は直接の知人だけでなく、本の著者でもかまいません(「本に私淑する」)。

一方、自分自身がリーダー(親)として、部下(子供)の「あの人」になるケースもあると思います。他人が「あの人なら、どうするだろうか?」と自分について考えてくれるとして、その種をどのようにまいていけばよいのでしょうか?

これはなかなか難しい作業です。たとえば「これが、自分の『決断の3か条』だから」といってリストを渡すことはできます。しかしそのままでは使えません。そういったショートリストは、凝縮された言葉に本人ならではの意味合いが込められており、受け手がそれを自分のものにするまでには時間がかかるからです。あるいは、OJTよろしくつきっきりで行動すれば、どんな局面でどう考えるかということを共有できるかもしれません。ただし人数が限られますし、いつでも一緒というわけにもいきません。

こういった努力について、ある中学校の先生の取り組みをうかがい、強い感銘を受けましたので、学びをまとめておきたいと思います。

先生からの情報発信を続ける

先生は自分のクラスの生徒に向けて、日刊のメールニュースや週2〜3回の学級新聞を発行し続けています。メッセージといっても、訓話的な「いい話」ではありません。逆に、一般的な連絡事項が中心です。宿題はこれですよ、行事の準備は進んでいますか、明日は誰の誕生日ですよ、といった内容です。加えて、テスト問題の作成が大変だとか、採点に夜中までかかってしまったとか、先生の日常の仕事ぶりが添えられています。

おそらく、メールは30分、学級新聞は1時間ほどかかるでしょう。週1回のメールニュースの発行でさえ苦労しているわたしからすると、この作業の大変さがよく分かります。中学生が「先生、毎日メールニュースをありがとう」と感謝の意を表明してくれるとも思えません。いったい何を励みにこれを続けておられるのかを知りたくて、ヒアリングをさせていただきました。先生は次のように話されました。

「たしかに返事が来ることはまれです。そして実際のところ、どのくらい読まれているかは分かりません。」
「でも、ふとカバンの底から学級新聞が出てきたりすれば、クラスの外でもクラスのことを、そして担任のことを思い出すきっかけにはなってくれると思っています」

ぶしつけを承知で「そのご努力は報われていると感じているか」と聞いてみたところ、明確には分からないとしつつ、こんなエピソードを語ってくださいました。

生徒が遊園地に行って「小学生料金で入っちゃおうか」という話になったときのこと。ある生徒の反対で皆が思いとどまったそうです。その生徒の発言は「先生が悲しむから、やめようよ」。

この生徒の共感能力もかなり高いと感じますが、共感できるだけの先生の人格が、その子の中に育っていたわけです。こういった話が先生の耳に届くこと自体まれでしょう。したがって似たことはたくさん起きているのでしょうし、言語化されないレベルまで含めれば、さらに多くの生徒が「先生は、どう思うだろうか」と自ら問う対象としての「内なる先生」を持てているのではないでしょうか。

部下に日報を書く、子供に日記を書く

自分の意志決定の基準を共有するために、決断の方法論やポリシーといった、大上段に構えた話をする必要はないのかもしれません。何にどれだけ時間を使ったかという事実そのもの、こうして毎日生徒のために時間を割いているという事実そのものが、先生の意志決定スタイルを雄弁に物語っているからです。

部下に日報を書かせているマネジャー、あるいは子供に日記を書かせている親は、少なくないことと思います。わたしもそうしてきました。部下や子供の考えを知りたいと思ってのことです。

相手も同じように思っているはずです。それなのに、自分は部下に日報を書いたことも、子供に日記を書いたことも、ほとんどありません。「あの人なら、どうするだろうか」という対象になる覚悟もなく、その努力もしていないのに、最近の若者(自分の子ども)は自分で判断し、行動できないと嘆く資格はないと思い知らされました。

相談があればいつでもおいでと言っている(から、自分に学びに来ない部下〔子供〕が悪い)。そう言いたい気持ちもあります。しかしこれも、自らすべき努力を相手に転嫁しているところがありそうです。相談する側に身を置いてみれば、平時の考えが見えない相手に有事の相談をしたくはありません。

マネジャーの日報も親の日記も、先生の学級新聞と同じく「いい話」である必要はありません。部下の評定に1人1時間もかかってしまった、2軒目のスーパーのほうがキャベツが10円安くて悔しかった、などという事実を淡々と書いていく。そういったエピソードの集積が、やがて「あの人なら、どうするだろうか」の材料になる。小さな情報発信の大きな価値を、先生の挑戦は教えてくれているように思います。