意志はどこから来るのか
わたしは今日このノートを書こうと決めて、こうして実際に書いています。これはわたしの意志です。しかし、意志は脳の働きで、脳は神経細胞の集まり。そして神経細胞は、刺激に対する反応を伝えたり保持するモノでしかない。とすると、わたしにコラムを書かせようと決めた意志は、どこから来たのでしょうか。
これは古くて新しい問題で、まだまだ解決にはいたりそうにありません。少なくとも、脳のなかに意識モジュールみたいな中央集権的な機能があって、そこから指令が出ているという考えは、現在は支持されていません(参考:カルテジアン劇場 – Wikipedia)。
最近読んだ『心が脳を変える―脳科学と「心の力」』では、19世紀後半の哲学者・心理学者であるウィリアム・ジェームズの次の見解が支持されていました。
意識にわき起こってくるたくさんの萌芽のなかから、ある考え、ある行動の可能性に注意を集中すること、それが意志の行動と呼ぶものだ、とジェームズは言う。意志は注意を通じて働き、多くのなかからひとつの考えを拡大し、安定させ、明確にし、支配的にする。意志の基本的な働きとは、ある対象に注意を向け、明確に強く心の前に据えて、ほかのもの――注意とその後の行動を巡って競合する相手――を日の出とともに消え失せる星のように消し去ることだ。
他の箇所ではジェームズの「意志的な努力は注意を向ける努力である」という言葉も引用されています。
(注:引用元の「関心」を「注意」に置き換えて引用しています。「関心」は”attention”の訳として採用されていたのですが、心理学用語としての”attention”は「注意」と訳されるのが一般的ですので。)
意志の源は注意だとすると、次の疑問は、注意の源は何かということです。『心が脳を変える』はそれについての仮説を述べた本なのですが、ここでは割愛し、「意志的な努力は注意を向ける努力である」というジェームズの言葉について考えてみます。
注意を向ける努力を振り返る
「意志的な努力は注意を向ける努力である」。わたしは今日このノートを書こうと決めて、こうして実際に書いています。これを毎週、9年近く繰り返しています。ノートのテーマである「個人の意志決定」についての「意志的な努力」は、一定量なされていると見なしてよいでしょう。
そこに「注意を向ける努力」があったか。注意というキーワードで振り返ってみたいと思います。
- 〈具体的なアウトプットを用意すれば注意が促進される〉毎週特定のテーマでノートを書くとなると、基本的にはその週に読んだ本、出会った人、体験などのインプットを材料にせざるをえません。そうなると、自然と「今の話はネタになるな」という形で注意が向きます。これは以前に「週記のすすめ」(1) (2) (3)などで書きました。
- 〈注意を喚起するのは情動である〉とはいえ、このノートのことがいつも意識の前面に来ているわけではありません。ハッとするような短い言葉や単語がきっかけとなって注意が向けられます。
- 〈注意の持続には別の努力が必要〉「意志」という言葉には、一定のアウトプットをめざした活動を持続させることが含まれていると思います。ノート書きの例でいえば、ハッという情動をモニタリングする努力と、それをきっかけに一本のノートを仕上げるまで注意を持続する努力とがあり、両者は別ものだと感じます。後者のための良いリストだと思うのが、「気づきの修行のコツ」(*ListFreak)です。
- 〈注意の向きには波がある〉幅広い分野に注意を向け続けるのは難しいと感じます。たとえば意志決定といっても、注意の対象は「意志決定における感情の役割」みたいな狭いテーマに向けられがちです。その中で一定量の満足がえられると、次の狭いテーマに注意が移っていくように思えます。
- 〈注意とは捨てることでもある〉注意とは処理の対象を選択することです。つまり、選択しないものを捨てることでもあります。面白いと思うのは、その選択は無意識のうちに働いているということです。たとえば家族で街に出かけて、後で印象に残ったものを話してみると、自分には存在すら思い出せないようなものの話をされることがあります。