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コンセプトノート

047. いまをいきる

全く考えてもいなかったようなことを、人から教わったり、本で読んだりするのは楽しいものです。わたしの最近の発見は「いまをいきる」という言葉。

数ヶ月前に図書館で見つけた『タイムシフティング』という本で「今に入り込む」というフレーズに興味を持ちました。それがどういうことか、一応書いてはあるのですがよく分からない。

一度なにかに関心が向くと、情報の方から目に飛び込んでくることがありますね。そのあと、同じ図書館で『若きサムライたちへ』という本の表紙にこんな印象的な言葉を見つけました。

 過去はない。未来もない。
 あるのは永遠に続く現在だけだ。
 現在を生きよ。現在を生き切れ。

分かるような、分からないような。そのまま過ごしているうちに、「あ、こういうことかもしれない」という小さな発見がありました。

そして先日、縁あって著者の田坂広志さんとお話しする機会を得たときのこと。その「いまをいきる」に関する小さな発見が会話のアイスブレイクになりました。

どんな発見かといいますと・・・

子供を幼稚園に連れて行ったことがある方にはピンと来る話だと思います。我が幼稚園は大人の足でも15分近く掛かります。これが子供と一緒だと実に時間が掛かる。

まずルーチンワークが幾つかあります。この花壇で花の匂いをかぐとか、この店の前で置き物にあいさつするとか。さらに毎日なんだかんだと新発見があって、しょっちゅう歩みが止まります。そのうちの幾つかは日々のルーチンに加わったりするわけですから、もう大変なイベントになってしまいます。

親はイライラします。幼稚園に遅れるぞ、前を見て歩け、置いていくぞ、となるわけですが、ふと「少なくともこの子は今に生きているわけだ」と思ってしまいました。

わたしにとっては幼稚園に時間までに着くことが目標なので、わき目もふらずに歩きたい。幼稚園までの15分は目標を達成するためにしょうがなく使っている時間で、必要悪みたいなものです。言い換えれば、私にとっては「死んでいる時間」です。早く預けて、一本でも早い電車でオフィスに着いて、あれをしたいこれをしたい、言ってみれば未来を見て現在を見ていない。

しかし小さい子供にとっては、一歩一歩に意味がある。「幼稚園に行く」というイベントは家を出た瞬間から始まっているわけです。

これを人生に置き換えてみたらどうなるか。「幼稚園」のような分かりやすい目標はなかなか有りませんから昇進や資格ということになります。そしてさまざまな理由で多くの目標は未達成に終わります。

力が足りなかったならば諦めもつきますが、家庭の事情など自分にはコントロールできない理由もあるでしょう。そのとき、もし目標に至るプロセスそのものが楽しくなかったり、意義を感じられないとしたらどういうことになるか。目標を達成しなければ、それに向けて費やした時間はすべて無駄だったということになります。

さらに言えば、ある目的のために目標を設定するという行為自体がリスクを内包しています。仮に目標(チャレンジ)を達成したとしても、それによってあなたの目的(ありたい自分)が充足されるかどうかは必ずしも分からないということです。

頂上に登ってみてはじめて、実は違う山に登っていたということに気が付くかもしれません。もう一度下山して登り直しとなったとき、「ああ無駄な時間だった」と嘆きたくはないものです。

このように考えを進めてきてようやく、「あるのは永遠に続く現在だけだ」という考え方が、悔いを残さない生き方の戦略として理にかなったものであることが、腑に落ちてきたのです。

話を戻します。田坂さんはそのときご自分のキャリアについて語られていました。これまでのキャリアの変遷(原子力研究→環境→IT→産業インキュベーション)、そしてここ数年で人生観関連の出版物が増えたことについて質問したのです。田坂さんは「社会変革」という自らに課した使命を達成する文脈の中で最もやりたい、あるいは重要だと思ったことを手掛けられてきた(したがって、バラバラなことをやってきているようだが自分の中では一貫している)こと、そして世の中の動きも、その時期その時期で注目を浴びたり一気に進化したりする領域があることを挙げ、両者(個人のキャリアと世の中の動き)にフラクタル構造にも似た類似性を感じることがある、とおっしゃっていました(例によって、これらのメッセージはわたしの理解です)。

個人の人生と世の中の動きのフラクタルな関係というのを聞いて、通園の15分間と人生のフラクタルな関係がふっと見えた気がして、「フラクタルといえば・・・」と強引に上のような話をしてしまいました。