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コンセプトノート

338. 「いま、選んだ」と気づく

自己決定か統制か

人は生涯、自己選択の問題に直面し続ける。すなわち自分の行為を自己決定するかそれとも、他者あるいは自分の内なる強力な力によって統制されるのかという問題に取り組んでゆく。(p13)

人を伸ばす力』の主題は「自発性」です。「自発性」を支えているのは自己決定への欲求で、その対義語が統制です。

上の引用文で見過ごせないのは、「自分の内なる強力な力によって統制される」という部分。見かけ上自分で決めていることでも、自己決定とはいえない場合があることを教えてくれます。

明示的に「統制」はされていないけれど、やらないと怒られるから/やると誉められるから/みんなやっているから、やる。厳密に考えてみると、ある選択が自律的なものなのか統制されてのものなのかの仕分けは、多分にあいまいなところがあります。

たとえば、スポーツの試合を観た帰り道。周りの人と押しつ押されつしながら歩いていると、最寄り駅にたどり着けます。おそらく先頭には、早く駅に着きたくて、かつ駅までの道を知っている人がいた。他の人は、その人を追って歩きだした。残りの人は、自分の前を歩く人に従った。さて、この集団の大部分の個人は、どのように道を選択したのでしょうか。

誰にも「統制」されてはいません。かといって「自己決定」的に選択したとも言いづらい。あえていえば「流れに身を委ねることを自己決定した」わけですが、積極的に決定したというよりは、ただ決めずにいたら運ばれた、というのが実情でしょう。

このような「流れ」は、目にこそ見えませんが、われわれの人生にもあるように思います。親の期待を裏切れない、上司の叱責が怖い、あの人に誉めてもらいたい、そんな馬鹿なことやっている人いない、などなど、周りの人との相対的な距離感において、自分の行動を選択してしまっているケースは、決して少なくないように思います(参考:「汝の汝(私はあなたのあなた)」)。
とはいえ、一つひとつの選択で立ち止まっていたら、それこそどこへも行けなくなってしまいそうです。どうすればよいのか。

「いま、選んだ」と気づく

一つひとつの選択に注意を向ける、ということを思いつきました。初期仏教の瞑想技術(ヴィパッサナー瞑想、参考:「6秒間で思慮深さを取り戻す」)では、見るもの聞くもの、動作、感情のひとつひとつに「気づく」ことを徹底します。認知療法では、その人のスキーマから生じる自動思考に自ら気づこうとします。中村天風は万事「はっきりした気持ちでやれ」と言います(参考:「勘をよくする」)。

おおざっぱなくくりですが、これらはすべて「注意」に関わっています。一つひとつの選択に意志を込めることは難しくとも、自分が「いま、選んだ」と観察することは可能なはずです。

それが選択を、すくなくとも重要な選択だけでも、自己決定的に行っていくための基礎体力づくりになるのではないでしょうか。