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コンセプトノート

339. 「偉大なる道路清掃人」になる自由

「重要でない仕事はない」
といったマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの言葉は、尊厳と自然さ、そして自由が一つになったときのパワーを思い出させてくれる。
「人間性を高める労働はどれも、尊く、重要なのであって、労を惜しまず、見事に遂行されなければならない。道路清掃人になるのが運命ならば、ミケランジェロが画を描き、ベートーヴェンが音楽を作曲し、シェイクスピアが詩を書いたように、彼は道路を清掃すべきなのである。天と地の全軍勢がみなその手を止めて、『ここにはかつて、偉大なる道路清掃人がいた。それは素晴らしい腕前だった』と言う、それほど見事に街路を清掃すべきなのだ」

アラン・クレメンツ 『ダルマ・ライフ―日々の生活に“自由”を見つける方法』(春秋社、2009年)

ページを繰る手を思わず止めて、メモしたくなるような文章です。実際ここに引用したように、メモを取りました。

しかし一点気になるのは「道路清掃人になるのが運命ならば」という言葉。どのようにして彼は自分の運命を知ったのでしょうか。原著にあたってみると、”If a man is called to be a street sweeper,”となっています。辞書によれば、この”call”には(神が人を聖職などに)「就かせる」という用法のようです。

「オマエは道路清掃人になるのが運命なのだ」と神様に言われてしまったら、わたしもきっと一所懸命やると思います。他に選択の余地はないのですから、目の前の仕事をやるしかない。やる以上は「天と地の全軍勢がみなその手を止めて」何か言ってくれるくらい、見事にやりたいと思います。

しかし実際には、わたしには仕事を選べる自由があります。といっても悩ましいことに部分的な自由であって、わたしが情熱を注ぎたい仕事を買ってくれる人がいる限りにおいての自由です。両者は完全には一致しないので、結果的にはすこし、ときにはかなり、ガマンをしながら仕事をすることになります。

わたしより数段スキルが高い人は、仕事選びの自由度が高いでしょう。情熱を注げる仕事を選びに選び抜いて、打ち込みます。なんともうらやましい。
しかし、仮にわたしがどうにか気持ちを整理して、いやな仕事に情熱を注げたとしましょう。第三者から見たら、どちらも「情熱をもって仕事をしている人」であって、見分けが付かないはずです。

そう考えてみると、「自由」という言葉にはかなり広がりがあります。
好きな仕事を選べるのも「自由」ですが、
仕事を選ばず楽しめるのも「自由」です。
そこまで心が自由な人には、なかなかお目にかかりませんが。