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パラドックスの時代―大転換期の意識革命


ミニレビュー

現代社会(資本主義社会)で起きている様々な矛盾に焦点を当て、ある章では経営者として組織をどう導いていくべきか、ある章では一個人としてどのように生活のポートフォリオを組んでいくべきかなどを幅広く論じています。

その矛盾(「現代における九つのパラドックス」として詳述)とは要するに:

引用:

 

 資本主義は、分配上の正義の第一の定義、つまり、達成率の最も高い者が最も多く取るべきだということで繁栄している。だが、その反対の部分、すなわち最も必要とするものの要求を満たすべきだという点を無視すれば、遠からず信頼も容認もされなくなろう。これを別の言い方をするならば、資本主義は不平等という基本原理、すなわち、よりよい人もいればよくない人もいることに依存しているが、ほとんどの人々がこの不平等という点を切望することへの平等の機会を持つ限りにおいて、民主主義の中では長い目で見て資本主義なるものはようやく認容されるということなのだ。それはわれわれには無視することの許されないパラドックスなのである。
(太字は引用者)

ということ。組織論や社会の話はひとまず措いて、今回は個人の観点から面白かった章を紹介します。

第16章「知能への投資」では知能(intelligence)を9つにも分類してみせた後で、(日本の東大入試の問題などを引用しつつ)知能だけでは意味がないことを示します。

引用:

 

知能を見いだすことと知能を応用し使うこととは別の事柄である。(1)問題事項や機会を識別し確認しうることが必要である。(2)そのようなものに関して何らかの手を打つためには、われわれ自身やその他の人々を組織化できることが必要であり、(3)さらに次の時にはもっとずっとよくできるようにと深く腰をおろして何が起こったのかをよく反省できることも必要である。これが実際の発見へのサイクルである。
(箇条書き番号は引用者)

そしてこの3つの技能(スキル)を以下のようにまとめています。

Conceptualizing(概念化すること)
Coordinating(調整すること)
Consolidating(統合すること)

Plan → Do → Seeに似ていますが、こちらの方が格好よさげですね それはともかく、この動的な「技能」こそ教育のコアとなっていなければならないのに、残念ながら実際には静的な「知能」を詰め込むだけのことが多いと指摘しています。

引用:

 

だからこそ日本の各企業は、頭のよい新入社員が入ってくるや否や、これを再教育しなければならないわけである。したがって早めに学校を辞めてしまう方がむしろ正解である子がいるのである。街中での方が、この三つの「C」を素早く覚えてしまうことがありうるのだ。

(おまけ)
原題は”Empty Raincoat”(空っぽのレインコート)という印象的なもの。なぜこのような題名なのか、まえがきにあたる「パラドックス性という論点」から引用しましょう。

引用:

 

 アメリカのミネアポリスの野外彫刻庭園で見た、ある彫像のことが忘れられない。それはジュディス・シー作の「言葉なく(ウイズアウト・ワーズ)」と呼ばれている作品である。この作品は三体からなっている。そのうちの一体はブロンズのレインコート。まっすぐに立ってはいるが、空っぽで、その中にはだれもいない。
わたしにとっては、その着ている人のない(エンプティ)レインコートは今日における最も喫緊の逆説(パラドックス)の象徴なのである。われわれは空っぽのレインコートになること、すなわち給与台帳に載っている無名の番号や、所定の役割を果たすだけの人や、経済学とか社会学の対象となるだけの原材料や、どこかの政府報告にある統計資料などとなるように運命づけられたわけではないのだ。もしそれが能率や経済成長の代償だということならば、経済的進歩などは空約束にすぎない。人生には、だれかよその人間の手に属する大きな機械の歯車の歯になってせわしなく行く先もわからずに走り去っていくこと以上に大切なものがあるはずである。この矛盾(パラドックス)はなんとか乗りこなせることのできるものであり、かつ、我々一人ひとりはその空のレインコートを着こなして実体化することができるということを証明することこそ、われわれの挑戦でなければならない。

…ここまで来ると、著者が現代のパラドックスをそこに見て取ったという彫刻を見たくなりますね。

そこで探してみました。

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