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コンセプトノート

790. 自分の辞書を育てる、あるいは二次経験を積むということ

機転の源

とっさの機転やひらめきは、外から「降りてくる」というより内から「湧き上がってくる」もののように思えます。

先日、いわゆる部長研修のファシリテーターを務めていたとき、うまく機転を利かせられたと思えた瞬間がありました。

参加者の皆さんは数人のグループに分かれ、まずはその回の研究対象であるA社が置かれた環境を分析し、その環境で事業を発展させるための鍵となる少数の因子を特定します。この手順は事業分析の常道で、この研修でも繰り返しやってきているので、皆さん短時間で的確に分析を終えられました。

(ぼかした表現になってしまいますが)A社はその鍵となる因子を満たすためにBという特徴的な戦略を打ち立てました。それをどう実現していったかを理解するため、A社が講じた一連の手段のつながりを構造化します。

ところがここで皆さんの手が止まってしまい、自分の準備不足に気づかされました。漠然と「A社がB戦略のために講じた一連の手段のつながりを考えてください」と問いかけておけば成果を出してくれるだろうと思い込んでいて、皆さんの思考を促すアイディアを持っていなかったのです。

この討議に割ける時間は10分ほどしかありません。呻吟するグループの間を縫って歩きつつ、どうフォローしたものか……と悩んだあげく、一つのやり方を思いつきました。

皆さんが慣れ親しんできた「成功の鍵となる少数の因子を特定する」という発想をここでも用いればよいのです。そこで討議に介入して「まずB戦略を成功させるための条件を考え、その条件を満たすためにA社が何をやったかをまとめてみたらどうなるでしょうか」と問いかけました。

この問いはうまく機能しました。ホッとしたあまり、討議後に偉そうに「この【鍵となる少数の因子を特定する】という発想は、問題解決やシナリオプランニングでも使われていて……」と一席ぶってしまったのは反省です。

それはともかく、わたしが興味を持ったのはこのとっさの機転の源でした。2年ほど前に書いた「ファクター・シンキング」というノートが浮かんできたのです。といってもサイトの画面や書いた文章が浮かんできたわけではなく、因子を介して考えるというアイディアは汎用的だなあといった、当時の「発見感」のような感覚が、因子という言葉とともによみがえってきたのです。

自分の辞書からしか言葉は拾えない

せっぱつまった状況を切り抜ける機転や、締め切りに迫られるなかで浮かぶ発想は、どこから来るのか。振り返ってみると、読んだ本のページや抜き書きした文章そのものが浮かんでくることはあまりないように思います。

知識を本から学んだり人から教わったりする経験を一次(源)経験とすると二次(メタ)経験というか、その知識について反芻したり話し合ったり実践を試みたりした結果として形成された心像(イメージ)が浮かんでくるように思われるのです。

「因子を介して考える」という発想でいえば、はっきりたどれる源は17年前に読んだ本です。2年前にその本をインプットに仕事の設計をした経験が「ファクター・シンキング」というノートに、そして冒頭で紹介した機転につながっています。

そういう二次経験を介さないと発想の源が豊かにならないというのは効率が悪い話ですが、わたしにかぎっていえば、それが事実のようです。というのは、毎週書いていたこのノートをお休みしていた期間も、同じように読書経験や仕事経験を積んでいたはずですが、そこから学んだはずのことがどこかに流れて行ってしまい、生かすことがなかなかできていないのです。

アウトプットするまでがインプット

経験という言葉を、読書や対話や仕事上の成功失敗といった生の経験(一次経験)と、それについての二次経験とを合わせたものだとみなすのがよいかもしれません。

ここまで書いたところで、もしこういった学び方に普遍性があるなら先達が考え尽くしているだろうと思って「二次経験」で検索してみると、ジョン・デューイの名前が引っかかりました。(1)

デューイによれば,第一次的経験とは最初の粗雑な,大まかな経験なのである。それに対して,第二次的経験とは,派生的な精錬された生産物であり,体系的な思考の介入によってのみ経験されるものである。つまり,第一次的経験は「第二次的経験」をすることによって初めて対象として認識されるのである。

年末年始の休みに、あるいは新年に、すこし探求してみようと思います。

〈参考文献〉

(1) Zhan, Xiaohong. “デューイ教育思想における 「habits」 に関する一考察–経験における習慣の位置づけ.” 早稲田大学大学院教育学研究科紀要 別冊 16 (2008): 15-25.

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