3杯めのビール
トーマス・セドラチェク『善と悪の経済学』に、印象深いたとえ話を見つけました。文意を損なわない程度にかいつまんで引用します。
ここで、居酒屋に客が三人いるのに、ビールが二杯しかない状況を想像してほしい。どう分けるのが公平だろうか。(略)ここには経済と哲学の複雑な問題が存在する。(略)富をどう分配するか、誰がビールに値し、それはなぜか。それによって、社会における権利関係が形成される。
だがこの厄介な問題は、三杯目のビールが魔法のようにテーブルに出現した瞬間に、解決される。(略)この瞬間に、正義の問題は掻き消えることに注意してほしい(略)。富の公平な分配という問題も、瞬時に消え失せる。
この三杯目のビールのマジックは、経済成長を象徴している。そして現在経済が抱える問題は、三杯目のビールが現れないことだ。要するに、経済が成長しないのである。そうなると、経済成長が解決するはずの哲学的難題に立ち戻らなければならない。
「売上増は七難隠す」という言葉を思い出しました。世界や国家でなく企業レベルでの話ですが、要するに売上増が万能の解決策だということです。
逆にいえば、売上が落ちたときにこそ、事業の目的(何のために苦労しているのか)や経営資源の配分ポリシーの確かさ(何が公正さの基準なのか)が問われます。
衣食欠いて徳を問われる
「衣食足りて礼節を知る」という言葉も思い出しました。ただし、「その通りだな」ではなく「逆かもな」という意味においてです。3人に3杯のビールが行き渡っていれば、礼節正しくふるまうのは難しくないでしょう。もし3人の前にビールが2杯しかなかったら、どうすべきか。礼節という観点からすれば、目下の人が目上の人に譲るべきでしょう。しかし、それだけが判断の物差しではありません。
孔子にちなんで五常(仁義礼智信)の残りを使って考えてみます。譲られた目上の人が「仁」者なら、思いやりを発揮して目下の人に譲り返すかもしれません。立場の上下でなく、もっとも苦労した人・辛い思いをした人にビールでやすらいでもらうのが正しい「義」というものかもしれません。「智」者がいれば空ジョッキを1つもらって分け直すような妙手を思いつくでしょう。3人が「信」を重んじるならば、今回我慢してくれた人に次回は必ず奢ろうとうことになるでしょう。
……苦しい解釈も混じりましたが、要するにもう一杯のビールさえあれば、上記のような徳行はそもそも不要なのです。衣食を欠いたときにこそ、徳が問われます。
自分のビール(あてにしている資源)は?
ビールが足りなくなってから徳を磨いても間に合いません。そこで、日常の仕事や生活におけるビール、つまり「手に入ることを前提にしているが、予想に反して手に入らなくなったら様々な問題をひき起こしそうなもの」を洗い出してみようと思います。
※ もともとの文脈では経済の「成長」をあてにしているのが問題なのですが、ここでは「継続的にある/手に入る」ことをあてにしている資源を考えます。
- 「収入」は、真っ先に思い浮かびます。ただ、日頃から考えざるをえないトピックでもあるので、今回は割愛します。
- 「健康」や体力、身体機能もそうですね。大きな病気や怪我をしたら、何にどう時間を割くかの基準は大きく変わると思います。そうでなくても経年的に失われていく資源であることは実感しています……これも今回は割愛。
- 「注目」、アテンション、あるいは存在感、これも「ビール」だと思います。多くの仕事を紹介でいただいてきたことを思い返すと、これは重要な資源です。紹介者が私を思い出してくれなかったら仕事が発生しなかったわけですから。
組織に勤めている方にとっても、事情はある程度同じでしょう。たとえば、ある日突然、社内外の誰からも何の期待もされず、注目もされず、まるでいないかのように扱われたと想像してみてください。単に寂しいという問題だけではありません。ゼロ・アテンションの世界では、貰いに行かなければ仕事は割り当てられず、出向いて催促しなければ給料も支払われません。 - 「信頼」も、失って初めて「あてにしていた」と気づくものです。たとえば定期的にやりとりをしていた取引先の担当者が代わって初めて、いろいろと融通を利かせてもらっていたことに気づきます。一方では信頼を失わないようにすべきですし、一方では信頼に甘えすぎないでおくべきなのでしょう。