懐疑する精神と、驚嘆する感性との結婚
天文学者で作家のカール・セーガンは、科学的に考える姿勢について次のように述べています。
科学の核心は、一見すると矛盾するかにみえる二つの姿勢のバランスを取るところにある。一つは、どれほど直観に反する奇妙なアイディアであっても、新しいアイディアに対しては心を開くという姿勢。もう一つは、古いアイディアであれ新しいアイディアであれ、懐疑的に、かつ徹底的に吟味するという姿勢である。
カール・セーガン 『人はなぜエセ科学に騙されるのか〈下〉』
この文章は「懐疑する精神と、驚嘆する感性との結婚」という章からの引用です。ひらたく言えば、驚きと疑いを共に持って考えるということです。
この「驚きと疑い」というコンビネーションは、セーガンより半世紀以上前に生まれたカール・ヤスパースという哲学者が挙げた「哲学の、3つの根源的動機」の中にも見出すことができます。
- 【驚異】 驚きから問いと認識が生まれる
- 【懐疑】 認識されたものに対する疑いから批判的吟味と明晰な確実性が生まれる
- 【喪失】 人間が受けた衝撃的な動揺と自己喪失の意識から自己自身に対する問いが生まれる
哲学の、3つの根源的動機(ヤスパース) – *ListFreak
セーガンはヤスパースの言葉を引いたのか、ヤスパース以前に「驚きと疑い」のコンビネーションの重要性について言及した人がいたのかなどは、調べが及んでいません。ともあれ両者の言葉を比べると
科学的に考える姿勢 + 自己 = 哲学的に考える姿勢
といった図式が見えるようで、面白いですね。
驚く感性、疑う精神、信じる意志
この「驚きと疑い」は本当によく選び抜かれたコンビだと思います。「へぇ!」と驚けなければ、考えようという意欲がわきません。「あれ、本当かな…」と疑えなければ、考える材料を吟味できず、自分なりの考えを引き出せません。
たとえば、つまらなかったセミナーを振り返ってみると、そこには「驚き」などなかったことでしょう。
逆に感心したまま聞き終えてしまった話は、後から後から「待てよ、こういう場合はどうなんだろう……」といった疑念が湧いてきて、実はよく理解していなかったことが分かったりします。
同じセミナーに参加しながら、深く学ぶ人とそうでない人がいます。学び上手な人は、驚きと疑いの弾み車を上手に回しながら自分に考えさせ続けることができているのではないでしょうか。
ではなぜ、そのようにできるのか。「懐疑する精神」が知を、「驚嘆する感性」が情を、代表していると考えると、知情意の意、言ってみれば「信じる意志」の存在が浮かび上がってきます。
※ 知と情の「結婚」が重要というセーガンの表現からすると、ここに第三者を持ち込むのは具合が悪いので、三者の「友情」が重要と考えてください。
驚きは、どこから生じるのか。「こうなっているべきなのに/こうありたいのに、そうなっていない」という、自分の世界観に生じた不均衡のようなものを検知したときに生じると考えると、「こうなっているべき/こうありたい」という主観が最初に必要です。それがなければ、何に出合っても「ま、そんなもんでしょ」と受け流して終わりになってしまいます。
この主観が「信じる意志」です。そして、そもそも「懐疑する精神と驚嘆する感性との結婚」を重要視し、両者をうまくはたらかせようとする姿勢もまた、「信じる意志」のあらわれです。
ここまでを振り返って、考え上手な人・学び上手な人の思考様式をモデリングしてみます。
考え上手・学び上手な人は:
- 自分なりの世界観(こうなっているべき/こうありたい)を持っている。
- 同時に、それは絶対的に正しいものではないというオープンさを備えている。だから、新しい情報がもたらすズレを検知できる。つまり驚ける。
- そして疑い、探究し、納得できれば世界観を修正・拡張していける。