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コンセプトノート

561. 退屈学

退屈学

『「無」の科学』という本に「退屈学――楽しい退屈」という魅力的な名前のコラムを見つけました。芝草の生長、テムズ川に流れ込むどぶ水、ペンキが乾く様子といった、いかにも退屈そうな観察をしている科学者に1日弟子入りした雑誌記者がつづった文章です。(1)

結果はどうか。たとえば芝草が1時間に3.5mm伸びる様子を観察し続けて『不思議なことに、私は誇らしい気持ちでいっぱいになっている』など、退屈とはほど遠い日々になったようです。

わたしも、退屈だったからというわけではありませんが、すこし退屈学をやってみたくなりました。

日常生活の中で誰もが退屈していそうなシーンの一つは、駅のホームで電車を待っている時間でしょう。多くの人が携帯端末をいじっています。趣味が悪いと思いつつ退屈学の研究のためにそっと覗いてまわると、ほぼコミュニケーション(SNSやメール)、ゲーム、ニュースの3つでした。

刺激 -> 感受 -> 応答 の流れが滞ると退屈する

退屈「学」っぽくするために、次のような仮説を立てました。人はつねに刺激(Input: 主に外界からの情報)-> 感受(Sensation: その刺激を五感によって感知すること)-> 応答(Response: 感受の結果として情動や思考が湧き上がってくること)という流れに身を浸しています。この流れが、大げさに言えば生の実感のようなもので、細くなると退屈を感じます。

この「流れ」と退屈の関係について、すこし例を挙げてみます。
駅のホームで退屈になるのは、1日の他の時間帯に比べて「刺激」が少なく、流れが細るからです。刺激は自分でもつくり出せるので、貯めておいた考えごとを取り出してあれこれと考えていれば、つまり流れを太くしておけば、その時間は退屈ではありません。
刺激が少なくても「感受」センサーの感度を高めれば、流れを太くできます。たとえば、風の動きをとらえることに注意を向けてみる。すると、風が意外に心地よかったり(情動)、風の回りぐあいに妙な周期があることを発見して面白くなったり(思考)といったぐあいに「応答」が活性化され、しばらく退屈ではなくなります。

次に、退屈をしのぐための「刺激」の功罪について。
ゲームなどのひまつぶしは、特定の応答(面白いという気持ちになること)をねらって、特定の感受(視覚や聴覚)に訴えるべく計算された刺激なわけです。面白いという応答を引き出すしかけという観点からは、ニュースもコミュニケーションツールも同じようなものです。
そういった自動化されたひまつぶしはありがたいものです。しかし積極的に感受力や応答力を使う必要がないため、それらの力が衰えて、さらに強い刺激が欲しくなるでしょう。あるいは馴化して(慣れて)しまい、別の刺激が欲しくなるでしょう。要するに、ひまつぶしコンテンツを受動的に消費していると、より退屈しやすくなるという副作用がありそうです。とすると、もし頻繁に退屈を感じるようなら、刺激過多なのかもしれません。

「面白い vs. 退屈」のリングから降りる

そう考えると、退屈の効用が見えてきます。ときどき訪れる退屈な時間を、五感に意識を向けることで感受性を較正したり、面白がってみることで応答性を高めたりする機会として捉えることができます。われわれがリフレッシュと称してのんびりしたがるのは、刺激を減らして感受性と応答性を取り戻そうとする心の自然なはたらきなのかもしれません。

せっかくの退屈学ですからもうすこしラジカルに考えてみます。

興味深いことに、面白くなくても退屈ではないという状態があります。たとえばある種の瞑想は、感受の部分に注意を向ける代わりに応答の部分を手放します。たとえば鼻を出入りする空気を感じることに注意を向けていたときに何かの匂いがしたからといって「お、カレーかな」などとは考えません。そういう考えが浮かぶのは避けられないとしても、そのまま流します。さらに「夕食まであと何時間かな」と連想を広げることはしません。

情動や思考が浮かんでは消えていくさまをただ観察するのは、笑えるほど面白くも退屈でもありません。ただ他の方法では得がたい充足感が得られます。そのような、面白い-退屈軸から外れた状態もあることを想うとき、刺激を減らして感受性や応答性を高めようという発想じたい、刺激 -> 感受 -> 応答の流れを、なにか価値あるものとして扱っていることに気づきます。よい刺激、よい感受性、よい応答性(感情や思考)があると思っているかぎり、その欠如としての退屈を感じることになるのだろうと思います。

ブッダは、人は身体と各種の認識・精神作用の集まり(五蘊)であり、変わらぬ「自分」というものはない(無我)と考えました。このように目覚めてしまった人は、面白がってもそれに執着せず、退屈してもそこから逃れようとはしないでしょう。それはどんな境地なのか……ここから先は、退屈したときにでも考えてみたいと思います。


(1) Jamieson, Valerie. (2005). Boring-ology: A happy tedium. New Scientist, 2531, 34-37.