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コンセプトノート

562. 「手段を選ばない」と言ってみる

「目的のためなら手段を選ばない」という言葉は、よい意味ではあまり使われません。「あなたは、目的のためなら手段を選ばない人ですね」と言われて嬉しい人はほとんどいないでしょう。政治において「目的を達成するためには手段を選ばぬ権謀術数」は「マキャベリズム」(日本大百科全書)と呼ばれ、ネガティブな語感を伴っています。

しかしわたしの考えでは、誰もが「~のためなら手段を選ばない」と他者に胸を張って宣言できるような目的を探していますし、そのような目的を見つけて邁進している人は賞賛されています。

「手段にこだわらない」は礼賛されるのに……

たとえば、企業には目的があり、その目的を達成するための手段がビジネスです。誰もが、目的を達成する最善の手段を探しています。

手段のよしあしは目的を達成できそうかどうかで測られるべきで、それ以外の理由で手段にこだわるのは不合理です。たとえば多くの人に本を届けることを目的としているA社が、紙の本を本屋で売るという手段にこだわったために目的を達成できなければ、「手段の目的化」として批判されるでしょう。

A社のこだわりに善悪はありません。ただ目的と手段の関係がすっきりしていないので、A社の社員はきっと「多くの人に本を届けるためには手段を選ばない」とは、胸を張って言えないでしょう。なぜかといえばA社の目的意識が十分に具体化されていないからです。たとえば「特定のやり方でやること」も目的に含まれているのに、それを言葉にしていないからです。

「手段を選ばない」テスト

こだわりがあるのなら、それは目的に組み入れればよいのです。

たとえばソフトバンクの理念は「情報革命で人々を幸せに」です。「人々を幸せに」するための手段である「情報革命」自体が目的に含まれています。

孫社長はきっと「人々を幸せにするためには手段を選ばない」とはおっしゃらないでしょうが、「情報革命で人々を幸せにするためには手段を選ばない」とはおっしゃるでしょう。

目的意識がクリアになるほど、つまり「この状態がめざすべき善だ」と信じられるほど、手段へのこだわりがなくなります。するとやる気も出ますし、発想も広がります。そのような状態に向けて目的と手段の関係を整理してくれるのが、「~のためなら手段を選ばない」と書いてみることです。

この「手段を選ばない」テストを簡単にまとめてみます。

  1. 「~のためなら手段を選ばない」と書いてみる
  2. そう言い切ることで生じる違和感とその理由を考える
  3. 「~のためなら手段を選ばない」と言い切れるように目的を書き直す

目的を磨くための「手段を選ばない」テスト*ListFreak

もしA社の人たちが「多くの人に【紙をめくって】本【を読む楽しみ】を届けるためには」と具体化した目的に対してなら「手段を選ばない」と言えるなら、士気は大いに上がり、クリエイティブな手段も考案されるでしょう(ビジネスとしては厳しくなるでしょうが)。

『クリエイティブ・チョイス』では、ローマ教皇から寄贈された高級車を景品に宝くじを催して、車の値段を上回る儲けを得た人の話を載せました。まるで「金儲けのためなら手段を選ばない」人のようですが、実際には「世の中から貧困をなくすためには手段を選ばない」人、マザー・テレサのクリエイティブ・チョイスでした。

よい目的の条件とは

この「手段を選ばない」テストは、目的と手段の関係を深く考えさせてくれる優れたテストです。

「~のためには手段を選ばない」と言い切れないとき、たいがいは目的が利己的であったり、他の人の目的と競合するものだったりします。

たとえば「子育てのためには手段を選ばない」と書いてみます。広言できそうにありません。「わたしは教育資金を稼ぐためなら法も犯します」「他の子を不幸せにしてでも自分の子育てを優先します」と言っているように感じられるからです。
では「子供を社会から必要とされる人間に育てるためには手段を選ばない」であればどうか。子供が社会から必要とされるという目的は利己的な手段によっては達成できそうにないので、最初の案よりはだいぶ広言しやすそうです。でもまだそう言い切れない部分が見えてきます。「手段を選ばないというが、親自身の夢を諦めたり財産を投げ打ったりしてもいいということか?」と考えてみると、そこまでの覚悟はできていないことに気づきます。そうであれば、さらにもう少し目的を限定してみます。

そんな過程を経て、当事者の中で洗練されていった目的は、手段へのこだわりから解放してくれる一方で、手段を適切に制限してくれます。

たとえば先ほどの「情報革命で人々を幸せに」。そのために手段を問わないのであれば、法を犯してもよいか。もちろんダメです。短期的に革命は起こせるかもしれませんが、会社が潰れては「人々を幸せに」できません。では競合に消耗戦を挑んでもよいか。それで人々(消費者)が幸せになるなら、きっとよいでしょう。何しろ「革命」ですから、打倒される旧い存在が必要です。

そう考えていくと、「手段を選ばない」テストに耐えられる目的には、多くの人が善と認められる価値観あるいは将来像が含まれているように思います。

もう一点あるとすれば、特定の価値感が暴走しないような対立概念を組み込んでいる目的は、テストに強そうです。「安らぎと活力を与えるスプーン」で紹介したドトールコーヒーの理念は、「安らぎ」と「活力」という両立しづらい理想を敢えて併存させています。これが「安らぎ」だけだと、「安らぎさえ与えられればいい」という方向に暴走しそうですが、同時に「活力」を与えるという目的も満たさなければならないとなると「手段を選ばない」といっても制約を受けます。