ある友人がわたしにいった。
伊丹十三、「近代五種」、文春文庫『女たちよ!』所収
「きみとぼくとは実に妙な共通点があるな。つまり、われわれ二人とも、ヴァイオリンを弾くでしょう」
「うん」
「しかも競馬強だ」
「そんなの、ちっとも珍しくない。オーケストラの中にいくらでもいるよ、競馬狂のヴァイオリニスト」
「いやいや、まだ先があるんですよ。しかもわれわれは二人とも玉を突く。そうして花札をやる。それもハチハチしかやらない」
「なるほど、そういえばそうだ」
「そこまではまだいいんですよ。決定的なのは、その上にですね、われわれ二人とも剣玉の名手でしょう。こういう組合せの二人が日本で他にいるもんですかね?」
「・・・・・・・・・・・・」
「だからね、もしかしてね、突然社会が変ってですね、ヴァイオリンが弾けて、競馬が好きで、ハチハチが強くて、玉突きと剣玉のうまい人が一番偉い、っていうようなことになったら、われわれ日本でも一番偉いほうになるんじゃないかしら?」
以前に別のコーナーで、梅田望夫さんのblogの一節を引用したことがありました:
スタンフォードのビジネススクールを出た連中、一流大学のComputer ScienceでPh.Dを持っているようなシリコンバレーのトップクラスの連中でさえ職が簡単には見つからない(歳を重ねれば一般的には条件が悪くなる)のは、不景気もさることながら、よほど意識しない限り、個の差別化が難しくなっているからだ。
ちょっとしたスキルならば、すぐにインドや中国や台湾のアウトソーシング先リソースとの競争になってしまう。
就職する、つまり人に自分を選んでもらう、のではなく、自分で仕事を創出しながら自らの差別化要因を積み上げていける「起業家としての生き方」のほうが「より合理的な選択」なのだと、もっと多くの人が気づく日も近いのではないだろうか。
(太字は引用者)
起-動線は必ずしも自営・独立を勧めるものではありません。しかし上記の、「起業家としての生き方」のほうが「より合理的な選択」なのだというメッセージは傾聴に値します。
起業というと夢やロマンを追うイメージがありますし、ハイリスクな選択でもあります。それがなぜ「合理的」なのか。
たとえば新聞の求人欄を見ると、企業がそれぞれの思惑で求人情報を掲載しています。応募できそうな企業はどの位ありますか?起-動線 会員の皆さんは年齢も職種もバラバラなので平均を考えることも難しいですが、多少経験やスキルに化粧を施したとして、2割くらいではないでしょうか。
もちろん応募できても採用されるとは限りません。ですから、
求人案件に応募できる確率 × そのなかで採用される確率
をいかに高めていくか。簡単にいえばこれが転職する方が考えるべき道筋です。
1つ目の考え方は、応募できる2割という数字を3割に上げること。なるべくいろんな経験を踏んで、どんなオファーが来ても「やったことあります」と言えるようにすれば、少なくとも求人市場の土俵に上がる確率は上がるでしょう。
2つ目は、応募できる件数が2割から1割になったとしても、採用の確率を5倍にするべく自分の専門を磨くこと。
言い方を換えれば、それぞれジェネラリスト、スペシャリストということになります。もちろんキャリアの育て方はこれほど単純に二分化できるものではなくて、スーパージェネラリスト ―つまり特定領域の深い専門を持ちながら、そこで培った「知恵」を他の領域にも敷衍していける人― たれ、というようなことも言われています。いずれにせよ、自分の競争力をどこに求めるかは注意しなくてはなりません。梅田さんが指摘されているとおり、競争力とはすなわち「差別化」です。他人と同じ土俵で、真っ向から競争しながら自らを差別化してくのは大変なことです。たとえば経営学の修士を、あるいは資格を取ったとすると、就職・転職市場においても自分とよく似たプロフィールの人たちと競争することになります。つまり更なる差別化が求められます。土俵は変わっても競争は続くということです。梅田さんのメッセージは、土俵そのものが(不景気によって)いきなり縮んでしまった、しかも(人材市場がグローバル化して)同時に低くなってしまったというのが、いまシリコンバレーで起きていることですよ、と理解できます。
「起業家としての生き方」 ―あえて「起業」ではなく「起業家としての生き方」と書いているところに注意― は第3の道です。起業家はどう考えるかといえば、実に『もしかしてね、突然社会が変ってですね、ヴァイオリンが弾けて、競馬が好きで、ハチハチが強くて、玉突きと剣玉のうまい人が一番偉い、っていうようなことになったら、われわれ日本でも一番偉いほうになるんじゃないかしら?』なのだと思います。
自分の好きなことを積み上げてみる。
「これだったら日本一かも!」というものが見つかったら、それを受け入れてくれそうな場所を探す。
そんな場所が無かったら創り出そうと試みる。
そういう試みの積み重ねが、たくまざる(あるいは巧妙に企んだ)差別化を生み出すのです。自分の能力をフルに発揮しつつ同時に他の人との差別化がしやすい点において、たしかに合理的な考え方です。
とはいえメシが食えなきゃしょうがない。次の大きなステップは、食っていくだけの社会的な価値をどのように生み出すかということになります。これはこれで大変な道だと思いますので、合理的だからといってやみくもに勧められるものでもありませんが、すくなくとも自分の「ヴァイオリン+競馬+ハチハチ+玉突き+剣玉」は何だろうかと、考えておきたいですね。だいいち楽しいじゃありませんか。
引用した伊丹十三のエッセイでは、近代五種競技(馬術+射撃+フェンシング+水泳+クロスカントリー)を枕に、冒頭の会話を経て、『だれしも、自分自身の「近代五種」を持っているように思う。』と続きます。
近代五種競技は、運動選手の総合的な能力を競う最高峰の競技のひとつです。こちらで戦うもよし、自分五種を創り出して、チャンピオンを名乗るもよし。(ヴァイオリン+競馬+ハチハチ+玉突き+剣玉)名人が価値を持つシチュエーションをひねり出せれば、そのニッチはあなたのものです。
独立自営ばかりが必ずしも「起業家としての生き方」ではありません。社内プロジェクトでも、上記のようなロジックで「自分のビジネス」をプロデュースしていけるならば、それは「起業家としての生き方」といえるのではないでしょうか。