マインドフルネス瞑想をすれば犯罪性向が低下するわけではない
「マインドフルネス瞑想は、犯罪歴のある人の犯罪性向(1) を減らすのに役立つか?」という問いを立てて実験をした論文を紹介する記事を読みました。(2)
実験では、服役囚と大学生の2つのグループに対してマインドフルネス瞑想のトレーニングを施し、その成果として「感情の受け入れ (willingness to accept emotions)」と「自他に対する判断の保留 (reserving judgment about the self and others)」の度合いを測ります。
同時に犯罪性向 (criminogenic cognitions) を測定していって、両者の関係の変化を測定します。
結果は……効果無し、でした。「感情の受け入れ」度が上がれば犯罪性向は下がるが、「自他に対する判断の保留」度が上がると犯罪性向も上がるので、両者が相殺されていた、とのことでした。
そもそも、瞑想で犯罪性向を下げられるというのは次のような仮説に基づいた考えでした。「感情の受け入れ」により自分の感情に気づくことで、それを観察し、適切に調整することができる。「自他に対する判断の保留」により、自他の行動のネガティブな側面にひきずられてストレスを感じないようになれる。
しかし、犯罪性向が高い人が「自他に対する判断の保留」度を高めると、もともと持っている犯罪につながる思考、たとえば自分の境遇の原因を他人に求めたり、自分を正当化したりする思考を野放しにしてしまうのだろう。著者はそう考察していました。
知情意のセットで考える
「感情の受け入れ」で、自分の感情に気づいた。「自他に対する判断の保留」で、思い込みから離れた。そこから、どちらを向いて何を考えるかは、本人の自由です。自動的に社会の共通善に沿って判断してくれるだろうというのは、マインドフルネス瞑想に対しても、人間に対しても、過大な期待だろうと思います。
記事では、マインドフルネス瞑想は精神を明晰にする (It is associated with people’s ability to clear their mind) と書かれています。精神を知情意に分解すると、「感情の受け入れ」は情、「自他に対する判断の保留」は知を明晰にするトレーニングといえましょう。しかし意については放置されていたので、人は元々の性向に沿って考え、結果として犯罪性向が高まったのではないでしょうか。
では、意をどう育てるか。マインドフルネス瞑想の本家である初期仏教でいえば、四無量心を育む慈悲の瞑想がそれにあたると思います。
ここでは、犯罪性向の測定基準に焦点を当ててみます。
自己への責任・他者への共感・秩序の尊重
記事が引いていた論文、またその著者の他の論文によると、犯罪性向の測定は、25の文章に対する同意の度合いを回答してもらうことで実施しています。25の文章は、5つの特質を測るために作られています。それらの名前と、それぞれの特質を測る文章の一つを訳してみました:
- 権利意識 「欲しいものがあると、誰かがくれると思う」
- 責任感の欠如 「いまの状況は小さい頃の悪い経験のせいでもある」
- 短期志向 「未来はわからないのだから計画しても意味がない」
- 犯罪の影響に対する鈍感さ 「被害者に怪我がなければ盗難は問題ではない」
- 権威に対する否定的態度 「偉い連中は他人を利用しているものだ」
犯罪を誘発する特質 – *ListFreak
これをそのまま裏返せば望ましい人間像が浮かび上がるわけではありません。25の文章を読みながら犯罪性向が極めて低い人を想像すると、自分のせいにしすぎ、周囲に気を遣いすぎ、秩序に従順すぎる……といったイメージが浮かんできます。たしかに犯罪からは縁遠いでしょうが、罪を犯さないことと善の指針となれることとは、同じではありません。
そこで上記の5つの根底にあるものを敢えて3つにまとめてみます。犯罪性向の高さとは「自己への責任・他者への共感・秩序の尊重」の著しい低さと言えるのではないでしょうか。
変えられるものと変えられないものを識別したうえで、自分の言動や選択について長期的に考え、責任を持つ。自分の言動が他者に及ぼす影響に思いを馳せる。挑戦心と破壊衝動を取り違えず、社会秩序に建設的に関わっていく。
ずいぶん高い目標になってしまいましたが、こういった行動規範に沿えていれば、自分の内なる犯罪性向に気づけそうです。
(1) 「犯罪性向」は専門領域での定義があるかもしれませんが、本ノートでは「犯罪性を促進するような考えの傾向」という意味合いで用いています。
(2) “Mindfulness Is Not Always Positive” (Ptsychology Today)