考えるためには、飢えがぎりぎり満たされるくらいがいい
哲学者の木田 元氏が、食事と知の働きについて書いたコラムを読みました。81歳の氏は「自分が一番ものを考えられた時期は、昭和20年代の後半だった」と振り返ります。
この時期は「生理的な飢餓感を何とか覚えずにいられる」というくらいの食糧不足でした。氏は、そのギリギリ感が「かえって精神の食欲を増進させたのかもしれない」と考察します。豊かになるにつれてそのような「精神の飢餓感」は薄れていったというくだりを引用します。
昭和30年代は日本人が全体として精神の高みを追求していたように思う。(略)
昭和30年になって高度経済成長が始まると、食べ物の心配は基本的になくなった。同時にせっかくの精神面での豊かさ追求がおろそかになったのではないか。(略)新しい思想、批評を開こうとする試みは続いたけれど、20年代にあった切実な感じはなくなった。
木田 元 「粗食こそ”知”の働き高める〜飢餓感ない均衡が大切」(日本経済新聞 夕刊 2009年8月5日)
もちろん、食べ物だけが人の考えに影響を及ぼすわけではないでしょう。この記事についていえば、食糧事情よりも年齢(氏は昭和3年生まれ)のほうが、思考態度や思考力と高い相関関係を持っていたかもしれません。
とはいえ、飢餓からぎりぎり脱出できた時代に一番ものを考えたという記述には、自分自身の経験や実際に触れた事例に照らして、強く共感できました。
マズローの欲求段階説など気にしない
「マズローの欲求段階説」とは、人間の欲求は次のリストのように階層化していて、生理的・物理的なものが満たされてから、より精神的な欲求を持つようになるという説です。ピラミッド状の図が有名ですよね。
- 生理的欲求 生命維持のための食欲・性欲・睡眠欲等の本能的・根源的な欲求
- 安全の欲求 衣類・住居など、安定・安全な状態を得ようとする欲求
- 所属と愛の欲求 集団に属したい、誰かに愛されたいといった欲求
- 承認の欲求 自分が集団から価値ある存在と認められ、尊敬されることを求める欲求
- 自己実現の欲求 自分の能力・可能性を発揮し、創作的活動や自己の成長を図りたいと思う欲求
マズローの欲求段階説 – *ListFreak
木田氏の省察を、「『生理的欲求』がギリギリ満たされるようになった時代が、『自己実現の欲求』を満たそうとする活動がもっとも活発だった」と読み替えられるならば、これは「マズローの欲求段階説」とあまりに違っています。
個人的な経験や見聞に照らしていえば、木田氏の経験のほうに強い共感を覚えます。
マズローが原著で正確にどう述べていたかは別として、一般に理解されているのは「欲求には優先度があり、低次の欲求が充足されると、より高次の欲求へと段階的に移行する」(Wikipedia)という理屈でしょう。
もとより、これはひとつの「説」であって、すべからく人間はこのように高次の欲求にいたるものだという「法則」ではありません。
逆境に陥って(=低次の欲求が充足されない状態で)、初めて内なる欲求が「見えた」人もたくさんいます。
僭越ながら、わたしも木田氏の半分くらいしかない人生を振り返ってみると、まがりなりにも「自己実現」などという高尚なテーマについて正面から真剣に考えたのは、失業時代でした。
ちょっと大げさですが、それまでの生活と比較すれば、「承認」してくれる仲間も「所属」すべき組織もなく、経済的な「安全」すらも心配な時期だったわけです。しかし、そうなってしまって初めて、真剣に考えました。
それから7年、いろいろな人から個人としての意志決定にまつわるストーリーをお聞きしてきましたが、わたしの経験は特殊なものではなく、どちらかといえば「よくある話」に属すると思います。
こんなことを書きたくなったのは、素晴らしいビジョンを語りながら「まだそんなこと言える段階じゃない」的な遠慮をなさる方がいて、しばしば欲求段階説に言及されるからです。もちろん、どのように欲求を追いかけようが自由なわけですが、無意識のうちに、欲求段階説を「行動しない理由」にしてしまっているとすれば、もったいない話です。ビジョンが見えてしまったのであれば、シンプルに追いかけてみればいいのに、と思います。