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コンセプトノート

045. 徹底して二兎を追う 〜 やじろべえとサーファーの話

仕事に疲れた友人からメールを貰いました。彼は起業を試みてかなわず、現在は一度サラリーマンに戻るべく面接を受けながらいろいろと考えごとをしています。

仕事は生活の経済的支えであり、また、生き甲斐でもありますが、それ以外の個人生活や家族生活を併せたトータルでの人生バランスを最適化させる試みから仕事についても考えていこうと思ってます。

ワーク・ライフ・バランスという言葉、ご存知ですよね。起-動線が追求しているテーマでもあります。

でも、バランスという言葉にすこしだけ引っかかりを感じています。バランスありきで人生を、思い切り楽しい人生をプランすることが可能なのでしょうか。ワーク・ライフ・バランスとは、ほどほどに仕事をして、ほどほどに楽しむ、ぬるい生活のことでしょうか。そうであったら、つまらない。

「バランスを取る」というと、例えばワークとライフを天秤に乗せて「釣り合わせ」ることをイメージしませんか。このとき、左の皿のワークと右の皿のライフは別のものになっています。

バランスには2種類あります。上のような静的なものと、動的なものです。

例えば絵に描いたうず潮と本物のうず潮。どちらも同じ形を保っています。前者は単に止まっているだけですが、後者は激しい海流が作る定常状態であり、止まっているように見えるだけです。

例えばやじろべえとサーファー。どちらも両手を広げてバランスを取った立ち姿、パッと見れば止まっているようです。前者は単に止まっているだけですが、後者は育ち行く波と共にそのポジションを微妙に変えながら高スピードで動いています。

ワーク・ライフ・バランスというのも、単純なワークとライフの二者択一、「釣り合い」や「配分」の話と捉えると、なんだか優等生じみた話になってしまいます。

では動的なバランスとはなにか。たとえば、ワークでもライフでもやりたいことがいつも溢れていて、どちらも楽しみたいから徹底して二兎を追い続ける、そのせめぎ合いの結果としてあるバランスが生じる。定常状態にあるように見える。そんなイメージを持っています。

その「せめぎ合い」の中では何が起きているのか。自発的にやりたいことも、外から降ってくるチャンスもたくさんあるなかで、その都度自分が楽しくなるような決断を重ねている。その決断の瞬間においてはバランスを考えているわけではない。しかし、判断基準が一貫しているので、結果としてバランスが取れているように見える。そんなイメージを持っています。

この「二兎を追う」ことに関して、50年以上成長を続けている企業群の研究書である『ビジョナリー・カンパニー』に興味深い示唆がありました。
いま手元に無いので正確な引用ができませんが、企業理念から導いた目標が互いに相容れないもの ―例えば高い収益率と環境への配慮― であったらどうするか。普通の企業はどちらかを諦めるが、ビジョナリーカンパニーは辛抱強く二兎を追い続けるのです。その結果、例えば環境に優しくてしかも収益性の高いやり方を作り出してしまう。廃棄物の処理を事業としても成立させると同時に、処理済みの廃棄物を燃料とて販売する、こんなことは30年前の製造業のビジョンには無かったでしょう。

ビジョナリー・カンパニーだって正解を知っていたわけではなかったでしょうが、この二兎を追わなかったら企業を存続させる意義が無い、という強い意志があった。

一方で、「選択と集中」とか「あぶはち取らず」とか言いますが、これはどうなのか。

サーファーだってどんどん捨てているはずです。ただし、ワークかライフかという選択ではなく、一貫した判断基準、起-動線でいう「ありたい自分」に沿っていないものを捨てる。

バランス=天秤というパラダイムの中でワーク・ライフ・バランスを考えている限りは、あくまでも「釣り合い」であり「配分」になってしまいます。ここには単純な二元論しかない。今やっていることはワークでありライフではない、あるいは今はワークの時間でありライフの時間ではない、ということになってしまう。

徹底的に二兎を追っていけば、例えば仕事と趣味が、仕事と家庭が両立する道があるかもしれない。子育てが大事なら子育てを稼ぎにする道があるかもしれない。

“Work Hard, Enjoy Life” ― これは、わたしが以前お世話になった企業の社訓のひとつです。ここには「ワーク」と「ライフ」はありますが、「バランス」とは書いていない。ただ、「目一杯働こう、人生を楽しもう」と言っているだけです。バランスは結果として生まれてくる均衡のようなものであり、必要なのはバランスありきの発想ではなく、自分を知っていること、そしてそれに正直であり続けることではないでしょうか。