静穏な心のための祈り
神よ、我に与えたまえ。
変えられないものを受けいれる落ち着きと、
変えられるものを変える勇気と、
それらを見分ける賢さを。
これは、次の文を翻訳したものです。
God, grant me the serenity to accept the things I cannot change,
Courage to change the things I can,
And wisdom to know the difference.— “Serenity Prayer“(Wikipedia)
“Serenity Prayer”は「静穏な心のための祈り」とでもなりましょうか。文中では、より一般的な言葉で、次の行の「勇気」と脚韻も踏める「落ち着き」を選びました。
Wikipedia日本語版では「ニーバーの祈り」となっています。
いい言葉ですよね。落ち着き・勇気・賢さ。枠組みの堅牢さが一目で感じ取れます。あえてなぞらえると、情・意・知に対応させられるでしょうか。
構成も分かりやすい。対立する2つの要素を並べて、それらの奥にある第3の要素を持ち出すという展開は、仏教の「貪瞋癡」を思い起こさせます。
……つい枠組みマニアな方向に話がそれてしまいました。個人的には、何かを我に与えたまえと神に祈る習慣はないのですが、折に触れて、この短い文からいろいろ気づきをもらってきたように思います。
何が変えられないのか、何が変えられるのか
たとえば、自分は変わらないまま他人を変えてやろうと考えていたことに気づくときがあります。そのときには、他人は自分の意思で変えられるものではないという事実を受けいれる「落ち着き」と、そのうえで自分を変えようという「勇気」とが、ともに必要だったことを学びます。
その一方で、変えられないと思って(思われて)いた何かが、実は変えられたかもしれないと気づくときもあります。そのときには、成否はどうあれ結果を結果として受けいれる「落ち着き」と、それを変えようと試みる「勇気」とが、ともに必要だったことを学びます。
振り返ると、そういうことの繰り返しばかりで、「それらを見分ける賢さ」が一向に身につかないのが歯がゆい限りです。
この状態は「変えられないもの」ではないはず。後知恵とはいえ、このリストを使えば何が足りなかったのかを省みることはできます。この振り返りをもう一歩早くして、「何が変えられるもので何が変えられないものなのか」に意識を向け、自分の前提を疑い続けるために、このリストをしばらく手元に置いてみます。変えられないものと変えられるものを見分けるヒントがつかめたら、またご報告したく。