弁証法的行動療法 (DBT) という、ものものしい名前の心理療法の本を読みました(1)。弁証法というと、なんとなく「正反合」とか「止揚」を連想するけれど、そういう、何かの矛盾に立ち向かい、乗り越えていくような療法なのだろうか。そんな疑問を持って本を開きました。そういう定義の話は、まえがきか序章に書かれているものと期待したのですが、実際には「徹底的受容」という概念が紹介されるところに出てきました、
『弁証法 (dialectic) [弁証法的行動療法: DBTにおいて] という言葉は、きわめて異なるような、あるいは矛盾しているとさえ見える2つのものの両者を尊重しながら、比較をすることを意味しています。』
やはり。では、その2つとは?
『DBTにおいて、そのバランスは、変化と受容の間で保たれます。皆さんは、生活の中で自分自身と他の人々により多くの苦痛を引き起こしている行動を変化させる一方で、同時に、ありのままの自分自身を受け容れる必要があります。これは、矛盾して聞こえるかもしれませんが、この治療の重要部分なのです。』
なるほど。読んだ瞬間、ナンバーワン(変化志向)かオンリーワン(受容志向)かという二者択一的な発想を乗り越える知恵がここにあるように感じられました。ともすると、ナンバーワン志向は競争主義に、オンリーワン志向は競争回避主義に陥ると思ってしまいます。しかし、ナンバーワンをめざしつつオンリーワンの自分に価値を認めるということは、適切にこころを鍛えれば、誰にも十分に可能そうに思えます。「変えなくてもいい自分を、さらに変えていく」くらいの心構えがいいのかな、などと考えました。
さらに少し先には、こんな記述がありました。
『徹底的受容とは、色々な意味で、平安の祈り (serenity prayer) のようなものです。平安の祈りとは、「変えられないものを受け入れる平静を、変えられるものを変える勇気を、そしてそれらを見分ける知恵を与えてください」というものです。』
たしかに、これは変化と受容についての祈りです。この祈りについては、以前「変えられないものと変えられるものを見分ける」というノートで採り上げました。そしてこう結びました。
『変えられないものと変えられるものを見分けるヒントがつかめたら、またご報告したく。』
そのような見分けが事前にできるという前提を持ってこう書いたのですが、変化と受容の弁証法というキーワードは、この前提を疑わせてくれました。
もし徹底的受容ができるなら、何かに取り組む前に、それが変えられるものかどうかを見分ける必要はありません。変えるべき何かを見いだしたなら、変えようと試みるのみです。なぜなら、結果がどうなろうとも、それを自分が受け容れられることを知っているのですから。
その状態をめざすならば、件の祈りはこうなるでしょうか。
神よ、我に与えたまえ。
変えられそうにないものを変えようとする勇気と、
変えられなかったものを受けいれる落ち着きと、
それらを併せ持てる賢さを。
(1) Matthew McKay 他 『弁証法的行動療法 実践トレーニングブック‐自分の感情とよりうまくつきあってゆくために‐』(星和書店、2011年)