カテゴリー
コンセプトノート

532. 共感を伴ってこそ、背中で教えられる

おばあちゃんの共感力

コンサルタントのピーター・ブレグマンは、『失敗への適切な対応』というコラムの中で、9歳の少女を慰めそこなったエピソードを紹介しています。内容をかいつまんで紹介しましょう。

ブレグマン氏夫妻が休日に友人宅を訪問していたとき、彼らの9歳になる娘デナが意気消沈して帰ってきました。聞けば水泳大会でフライングをして失格になったとのこと。水泳に打ち込んでいるデナにとっては大ショックです。当然、皆はデナを慰めます。

デナの父「まだチャンスはあるぞ」
私「調子がいいことの証明だよ。きっとうまくなる」
私の妻「誰にでも起きることよ」
デナの母「あなたなら、必ずできるようになる」

しかし、誰の言葉も効果がありません。そのとき、祖母のミミが現れました。ミミはしばらくデナを片腕に抱いて静かに座っていました。そしてこう言いました。

「失格は悲しいわね」

表情を失っていたデミは涙を流し、祖母に感謝の言葉を述べました。

共感のミラーリング

引用元の文章はもっと長く、臨場感豊かです。興味を持たれた方はご一読ください。

いきなり問題を分析したり解決したりしようとせず、まずは相手の感情を理解していること、つまり共感を示す。「アンドルー・テスト」というノートで紹介したエピソードも、これとよく似た構造を持っています。

前回の『「自分に励まされる人がいる」という励まし』では、共感を示してくれた人の心の動きに追随してしまうメカニズムがあるのではないかという推察を書きました。

前回紹介した、問題を語ったNPOのリーダーと、それをじっくり聞き届けたセッション参加者の会話の核心部分を再掲します。

参加者「あなたの問題への取り組みを聞いて、自分もがんばろうと思った」
リーダー「話してみて、問題の原因は自分にあることに気づいた」

参加者が共感を示したうえで内省の言葉を述べました。それが鏡のようにはたらき、リーダーを内省に向かわせました。

リーダーと参加者は互いにIメッセージ、「自分はこう感じた」ということしか述べていません。そして相手に言われたのではなく自ら感じた・考えたという事実が、より深い納得につながっています。共感している両者が互いに心情を述べ合うとき、相手の心の動きのなかに自らを発見していくようなことが起きているのでしょう。

背中で教える

これを敷衍すると、もし相手に特定の思考や行動を望むならば、相手の気持ちをよく理解したうえで、望む思考や行動を自分がしてみせるのがよいということになります。

いわゆる「背中で教える」です。逆に言えば、相手に共感を示すことは背中で教えるための必要条件のようにも思います。

このように考えてきて、わたし自身が深く教えられた事例を思い出しました。

ある企業のリーダー研修に参加した時のことです。4日間の長期研修で、わたしとYさんという方の2人がファシリテーターを務めました。Yさんはわたしより2回りも上の大先輩。教育者としての実績も知られていて、一緒に仕事をさせてもらえるのはとても光栄なことです。

なかなかファシリテーションの難しい研修で、Yさんに話を聞いていただく機会がたくさんありました。

ある回で、Yさんの講義の後で意見を申し上げました。参加者の納得を得るための会話の組み立てを「道」と呼ぶならば、Yさんの通ったAの道でなくBの道もあったのではといった、小さな意見です。何しろ大先輩ですのでかなり勇気が要ったのですが、Yさんは感謝してくれました。

驚いたのは、1年後、同じ研修・同じ役回りでまたご一緒したときのこと。何と、YさんはBの道を試しておられるではありませんか!本当に小さな、フィードバックを差し上げたわたし自身も忘れていたようなポイントの改善を、試みておられたのです。

常にプロとして学習し続けなければならないことを、これほど強く感じたことはありません。Yさんは何かを教えようと思ったわけではないでしょうが、私は勝手に教えを受けたと思っています。