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コンセプトノート

745. 人生の障害としての「自分」

「自分」という問題

仏教には無我という教えがあります。なぜ無我を理解すべきなのか。「我」つまり「自分」が有るとどんな問題が引き起こされるのか。ロバート・ライト 『なぜ今、仏教なのか 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』(早川書房、2018年)から引用します。

僧侶のワールポラ・ラーフラは、一九五九年に出版した影響力のある著書『ブッダが説いたこと』(岩波文庫) でこの問題を非常に印象的にとりあげている。「ブッダの教えによれば、自己という概念は想像上の誤った思いこみで、対応する実体を持たない。それは、『私』や『私のもの』という有害な考え、利己的な欲望、渇望、執着、憎しみ、悪意、うぬぼれ、傲慢、自己中心主義など、さまざまな煩悩、不浄、問題を生みだす。個人間の対立から国家間の戦争まで、この世のあらゆる紛争の元凶になる。ひとことでいえば、この世のあらゆる悪がこの誤った見方に端を発している」

先日出版社からご献本いただいた、ロバート・フリッツ 『自意識(アイデンティティ)と創り出す思考』(Evolving、2018年)も、やはり「自分」という問題についての本でした(本書では自意識)。映像作家でもある著者は、創作者を例に挙げて次のように述べています。

 創作者として生計を立てている人は、創作者である自分自身と創作物とを明確に区別できていることが多い。(略)アマチュアの場合は、しばしば違うことになっている。作品と自分自身とを混同してしまうのだ。自意識〈アイデンティティ〉の問題を抱えた創作者だと、何を創っても自分自身を表現したものだと思ってしまう。

自分自身の表現が行き過ぎると「自己陶酔」となって誰の目にも明らかに映ります。創作は自由度が高いぶん自意識が入り込みやすいのでわかりやすいですが、われわれの仕事や生活における諸活動にも同じ構造はあると思います。「自己陶酔も自己防衛も不要。顧客のニーズは何か、それにどう応えるかだけをストレートに考えろ」といった意味合いの指導を受けたことを思い出しました。

無我への道

仏教では、『自己という概念は想像上の誤った思い込み』だと気づくために、瞑想によって「自分」を、つまり微細な感覚やそこから生まれる想念などをつぶさに観察します。すると、自分に引き寄せたいという欲求(貪)も自分から遠ざけたいという嫌悪(瞋)も、自分という概念が『想像上の誤った思い込み』であることに気づいていないという迷妄(癡)から生じていることが理解できるようになる、というのがわたしの理解です。理解といっても字面の話で、その境地を実際に経験しなければ真に理解したとはいえないわけですが。

一方フリッツは、自意識に囚われないようにするために、大まかに2つのやり方について述べています。

一つめは、意識を自分から行為の対象に移すこと。創作者と創作物について語っている章の最後では、このように述べています。

 本書のメッセージは、「自分自身ではなく、創作物(創られるもの)にフォーカスを移すこと」だ。ただ、これを理解するのは簡単でも、実践するのは簡単ではない。規律と自覚がなければフォーカスを移すことはできない。

二つめは、自分を観察すること。そして「ダークサイド」を含めて丸ごと受け入れること。「ダークサイド」とは、別の箇所で「嫌な思い込み (unwanted belief)」と書かれている概念とおそらく同義で、自分についての無意識の思い込みを指しています。

人が理想を掲げるのは無意識の「嫌な思い込み」を打ち消すためであり、そのような理想を掲げてもそうでない現実を感じるだけで意味がない、と著者は述べています。たとえば、自分は臆病者だという思いこみに気づかないまま、それに操られるように「勇敢になりたい」と願ったとします。その人がいくら「自分は勇敢だ」と自分に言い聞かせても、それは「現実はそうではない」「そうしなければならないほど自分は臆病者だ」と言い聞かせているようなものだ、というわけです。

そのような嫌な思いこみ、あるいはダークサイドをどう受け入れるか。詳細は書かれていませんが、新約聖書にある放蕩息子の話が比喩として紹介されていました。よき息子が父親を助けて家で暮らす一方、放蕩息子は外で気ままに暮らします。そして無一文となってしまい、家に帰ってきました。死んだものと思っていた父親は大喜びですが、苦労してきたよき息子は不満を持つ……というストーリーです。

 あなたの中には、よき息子のように、命の源泉(父親)に忠実に生きてきた部分がある。同時に、道を踏み外して問題を起こしてきた部分もある。その放蕩息子の部分が何の要求も期待も持たずに家に帰りたいと言うとき、皮肉なことに再会を喜ばないのはよき息子のほうだ。(略)救済が必要なのは、放蕩息子の部分以上に、この心の狭いよき息子のほうである。自分が自分自身にまるごと完全に還ってくるのを許すことが必要なのだ。

観察・理解・受容

一連のトレーニングを経て、ダークサイドを受け入れる、あるいは放蕩息子に親しめるようになると、何が起きるか。

何人もの参加者が、頭の中でずっと続いていたおしゃべりが突然消えたと報告してくれた。まるで、つけっぱなしだったことにさえ気づいていなかったラジオが急に消えたみたいだという。そこには空間と自由と内なる平和の感覚があった。

これは、(ヴィパッサナー)瞑想経験者の声に近いですね。フリッツは独自に自意識との付き合い方を開発してきたのだと思いますが、本書には初期仏教の考えと通底する部分があると感じました。

せっかくなので、やや抽象的かつ強引ですが両者を統合し、「自分」に囚われないためのステップとしてまとめておきます。

  • まず感覚レベルから思いにいたるまで、「自分」の構成要素を観察する。
  • その思い(込み)が苦を生んでいるメカニズムを理解する。
  • その思い込みを抑圧せず、受容する。

観察・理解・受容でじゅうぶん収まりがよいのですが、さらに「無視」を加えてもいいかもしれません。「自分自身ではなく、創作物(創られるもの)にフォーカスを移す」というアプローチを紹介したとおり、成果や目的に意識を傾注していくことで、相対的に「自分」への関心が薄まっていくようにも思います。