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コンセプトノート

607. マイ・デカルト・プロジェクト(信念の形成)

今ここにあるもの(だけ)から始める

デヴィッド・ボーム『創造性について』という本の「監訳者あとがき」に、ボーム(Wikipedia)がクリシュナムルティ(Wikipedia)について語っているインタビューが載っていました。

以前、何人かの仏教徒が、クリシュナムルティが言っていることは、仏教徒(仏陀)が言っていることとだいたい同じだと言ったとき、彼は言いました。「なぜあなたは今ここにあるものから始めないで、仏陀から始めるのですか?」これは非常に重要なことなのですが、彼は他の人々が言ってきたことと(彼が言うこと)の比較をきっぱりと拒むのです。

仏教徒がこの強烈な問いにどう答えたか、知りたいものです。たしかに、もし「あなたが言っていることは仏陀が言っていることとだいたい同じだ」とまでしか言えないのなら、その人はまだ仏陀が言っていることを自分のものとしていないわけです。クリシュナムルティからすれば、辞書と話をしているようなものでしょう。

もし仏教徒が「あなたが言っていることは“わたしが言っていること”とだいたい同じだ」と述べたなら、クリシュナムルティは対等に議論しあえる相手を見つけたと喜ぶことでしょう。しかしそう言う以上、仏教徒は「わたしが言っていること」の正しさについて、仏陀がそういったからという理由以外の根拠を述べられなければなりません。もちろん、他の権威がそう言ったから/時の試練を経た言葉だから/科学的に証明されているから、といったことも根拠にはなりません。

これはかなり厳しい態度です。たとえば何かについて「このようなやり方で決めるべきだ」という意見を述べるとします。外部の何かを根拠にしないとなると、自分の知覚・記憶・思考など、内なる資源に頼らざるを得ません。おそらくは、あらゆる決め方のオプションを想起し、その都度湧き上がる情動の声に耳を傾けつつ、論理的にも納得できるような決め方を丹念に模索することになるでしょう。

それはただの主観ではないか、とも思えます。しかし客観的に思える先人の知恵(たとえば功罪表を作る)も、多くの人の主観の公約数に過ぎません。であれば、他人の主観よりは磨き抜いた自分の主観を羅針盤にする方が、後悔の少ない決定につながるのではないでしょうか。

マイ・デカルト・プロジェクト

もちろん、先人の知恵を参考にするなという意味ではありません。大いに参考にすべきでしょう。ただしそれは持論という家の建材であり、住み込むべき家そのものではない、ということです。

このような懐疑的なアプローチを考えるとき、建材として頼りになるのが、デカルト(Wikipedia)です。デカルトは次のようにして、疑い得ないものを起点にして思考を導くやり方を確立しています。

  • 【明証性の規則】わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと
  • 【分析の規則】わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること
  • 【総合の規則】わたしの思考を順序にしたがって導くこと
  • 【枚挙の規則】すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること

デカルトの思考規則*ListFreak

ここまで徹底はできないでしょうが、それでもいくつかの、いわば「マイ・デカルト・プロジェクト」を立ち上げてみたくなりました。

たとえば、この「思考規則」自身を例にとれば、次のような手順で我がものにしようということです。

  1. 先人の知恵を十分にインプットする
  2. 何も見ず、自分の言葉で思考規則を書き下す
  3. それを、外部の資源を使わずに根拠づける。なぜそのやり方なのか、他にもっとよいやり方がないか、論理的にチェックする。同時に情動の声に耳を傾ける。たとえば「この規則に従おう」と考えたときにわずかでも不安が生じないか、生じたならばその源は何か、を探り、解決を図る

このような苦しいプロセスを経て、自分の中にあるもののみによって完全に根拠づけられた成果は、「信念」と呼ぶに値するでしょう。

それが結果的にデカルトの思考規則と似ていれば、もちろん「デカルトがすでに言っていることですね」と言われます。信念がテストされる瞬間です。もし自分の信念と呼べるまで結晶化されていれば、自然と次の言葉が浮かんでくることでしょう。

「なぜあなたは今ここにあるものから始めないで、デカルトから始めるのですか?」