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コンセプトノート

352. 「べからず集」の効用

自由意思はないが自由否定はできる

科学的な見地からは、自由意思はおそらく“ない”だろうといわれています。
― 池谷 裕二 『脳はなにかと言い訳する』 (新潮文庫、2010年)

まず意思があり、それを身体に伝えて行動する。そういった、われわれにとって常識と思えるモデルが、実は事実でないことが明らかになりつつあります。

上述の本では、ヒル(蛭)を使った面白い実験が紹介されていました。ヒルの逃げ方には「這う」か「泳ぐ」かの二通りがあるそうです。与えられた刺激が同じでも、ヒルの逃げ方はいつも同じというわけではありません。ではどのようにして逃げ方を選択しているのか。

研究の結果、逃げ方の選択はある神経細胞の膜イオン濃度に依存していました。ところが刺激の有無とイオン濃度との間には相関がないので、単に濃度の「ゆらぎ」によって、いわば偶然によって逃げ方が選択されていることが分かったというのです。

こういった結果を紹介したうえで、著者は「人間の一見複雑な行動は、そんな偶発的なゆらぎの積み重なりの結果でしょう」と項を結んでいます。

ただ、そういったゆらぎをすべて行動に移しているわけではありません。著者は、行動に移す前に前に意識的に行動を止めることはできる、つまり「<自由意思>はないけれども、<自由否定>はできるわけです」と述べています。ここは面白いところなので、少々長いですが引用します。

 先ほどの「ボタン押しの実験」でいうと、好きなときに押していいですよと言われて、ボタンを押そうと思ったとき、確かに、脳は一秒くらい前から押す準備を始めていました。意識が生まれたときには、すでに脳は押す準備をしています。でも、実際にボタンを押そうという指令が下るまでには、さらに〇・二〜〇・三秒の時間の遅れがあるのです。これがポイントです。
 つまり、ボタンを押そうという「意思」が生まれても、ボタンを押すことを「阻止」することはできるのです。ボタンを押したくなったからといって、一〇〇%それに従う必要はない。押すのをやめてもいいわけです。そこにわたしたちの自由があるようなのです。

しっかりした「べからず集」を持つ

上の実験のような反射的な選択と、人間に固有の意志・意欲に基づいた長期的なコミットメントを伴う意志決定との間には質的な違いがあります。あまり敷衍しすぎるのは問題でしょうが、この一連の文章からはいろいろ考える材料をもらいました。

たとえば、わたしは、五戒や十戒などの「べからず集」があまり好きではありません。「〜をしない」というリストよりは「〜をする」というリストのほうを好みます。しかし上の文章によれば、われわれの自由意思は、ゆらぎによって生じた意思を行動に移さないところにこそ存在します。

とすると、自分なりの「べからず集」を磨いて「〜をしない」という意識的判断のスピードを高めれば、それだけ上の「〇・二〜〇・三秒」に自分の意思をしっかり反映させることができることになります。