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コンセプトノート

595. 「それは人としてどうなんだ」と言いたくなったマネジャーの話

マネジャーにも道徳的な判断が必要か?

課長のあなたは、部下の一人Aさんの扱いに悩んでいます。Aさんはものすごく優秀ですが横柄なのです。たとえば企画会議では、良いアイディアをたくさん出せるAさんは貴重な存在で、案が一番よく採用されるのもAさんです。ただしそこに至る過程では、他の参加者はいつも不快な思いをさせられます。他人の意見をこき下ろすような内容の発言が多いうえ、態度がとげとげしいからです。

このような問題が難しいのは、単一の視点だけではよし悪しが問えないからです。経済的かつ短期的な視点(いま課の利益に貢献しているか?)からいえば、Aさんは良い人でしょう。しかし長期的に見れば、課全体の業績を下げるかもしれません。

課の人間関係が悪いと、長期的には課の業績が下がってしまう。だからAさんの行動は好ましくない。これは妥当な判断のように思えます。しかし、Aさんの行動のよし悪しは業績との関係においてのみ判断されるものでしょうか。もし組織の人間関係と業績には相関関係がないという調査結果が出(て、しかも正しいことがわかっ)たら、Aさんの行動には何の問題もないことになるのでしょうか。他の課員が不快な思いをしているという事実は、放置せざるを得ないのでしょうか。

もし業績とは関係なく、むしろ業績が多少下がるとしても、課の人間関係をよくすべきだと考えるなら、その根拠はどこに求めるべきなのでしょうか。Aさんにはどう説明すべきでしょうか。

こういった善悪の問題を考える視点を得るため、道徳の研究に目を向けてみます。

普遍的な道徳の視点とは何か?

スティーブン・ピンカーの著書『暴力の人類史 』で、「道徳のビッグ・スリー」という分類が紹介されています。これは人類学者のリチャード・シュウェーダーが提唱したものです。彼はインドのオリッサ地方(現在は州)のモラルコード(=道徳規範)をまとめるかたちでこの3つを見出しました。

  • 【自主性】 社会は個人で成り立っていることを前提として、道徳の目的はその個人に自分の選択を行使させ、個人を危害から守ることであると見なす。
  • 【共同体】 部族や氏族や家族や機関や組合など、さまざまなかたちの連合の集まりが社会であると見なされるため、ここでの道徳は、義務や尊敬や忠誠や相互依存とイコールになる。
  • 【神性】 世界は神の精髄(エッセンス)でできていて、その一部分が身体に宿っているのだという前提のもと、道徳の目的はこの霊を劣化や汚染から守ることだと見なされる。純潔や禁欲が価値あることとして守られる。

道徳のビッグ・スリー*ListFreak

この3か条ではやや抽象的なので、これに関連づける形で哲学者のジョナサン・ハイトがまとめたリストも引用します。第1、第2項目が自主性(autonomy)、第3、第4項目が共同体(community)、第5項目が神性(divinity)に関連しています。

  • 【危害/温情】 親切さや同情を育み、残忍さや攻撃性を抑制すること
  • 【公正/互恵】 互恵的利他主義の背後にある道徳
  • 【内集団/忠誠】 安定性、伝統、愛国心
  • 【権威/尊敬】 権威への尊敬、神への服従、性別による役割固定の承認、軍事的服従
  • 【純粋性/神聖性】 礼儀正しさ、上品さ、宗教的な規律の順守

道徳の5つの基盤(ハイト)*ListFreak

それを組織に持ち込むとどうなるか?

ハイトの5か条を参考にしつつ、シュウェーダーのビッグ・スリーをマネジャー版に置き換えてみたのが下のリストです。

  1. その判断は、個人の自主性や権利を尊重するものか?
  2. その判断は、組織の共通善にかなうものか?
  3. その判断は、自分の価値観にかなうものか?

Aさんのケースで考えてみましょう。

1 の観点からすると、Aさんが攻撃的だからといって攻撃的な言動を返したり懲罰的な処遇を課すのは、正しくないでしょう。また何らかの指導をする際には、それがAさんからも周囲からも公正と感じられるのが望ましいことになります。

2は、組織が何をもって善としているかによって変わってきます。企業の経営理念や行動指針の中には、顧客にどのような価値をもたらすかだけでなく、どのように働いてその価値をもたらすかについて言及しているものも少なくありません。

日本を代表する企業としてトヨタを例に挙げましょう。トヨタは7項目の企業理念を掲げており、その一つに「労使相互信頼・責任を基本に、個人の創造力とチームワークの強みを最大限に高める企業風土をつくる」があります。理念として掲げられているということは、高いチームワークそのものを善としているわけで、利益のために高いチームワークが必要という話ではないはずです。この観点からすれば、課長としてはAさんの行動に注文を付けなければならないでしょう。

3は、なかなか翻訳に悩みました。組織の単位を超えて宗教のように機能する道徳律の候補としては資本主義や民主主義がありますが、あまりAさんの件を考える参考になりません。

そこで、課長にとって神性を感じるような判断基準があるかを考えてみました。たとえ組織の理念に照らして問題がなくても、自分が長を務める課でAさんのようなふるまいを看過できないと感じるならば、その基準は何なのか。

ひらたくいえば、課長個人の価値観ということになろうかと思います。それは「社会人として」「日本人として」「人として」どうなんだ、と言うとき、それはもはや課長の発言ではありません。同じ社会・国・種に属する仲間として個人的な価値観をぶつけているのです。

ここまでの整理をふまえて、Aさんに何を伝えるかを考えてみます。まずはAさんのふるまいをどの観点から好ましくないと感じているのかを整理しなければなりません。ここをごちゃごちゃにしてしまうと、個人的な価値観を組織の理念であるかのように偽装してしまいそうです。それは独善というものです。課長としての視点(1,2)と個人としての視点(3)を注意深く分けて考え、その両方を伝えるべきかなと考えます。

3の基準に基づいた発言が、「親身になってくれた」「本気で叱ってくれた」というかたちで聞き手の心に届くかもしれません。「おせっかいだ」「価値観の押しつけだ」というかたちで反発を招くかもしれません。怖くはありますが、この部分を語っていかなければ、どこか機械じみた、代替可能な課長になってしまいそうに思うのです。