774. 知っていること、信じていること、感じていること

知っていることは同じでも、信じていることが違う

ネット書店で、ある論争を描いた本に「知っていることは同じでも、信じていることが違う人たちの戦い」という評が寄せられていました。題名を忘れてしまい、このフレーズで検索してもヒットしないので正確な引用ができないのですが、わかりやすい表現が印象に残っています。

論争にかぎらず、合意に関する不一致は、突き詰めれば信じることの違いから発します。決断に関する迷いは、突き詰めれば信じることへの疑いから発します。

たとえば会社でAさんを英語圏の海外支社に送るか否かという会議があったとします。能力や本人の意欲・都合など他の採用基準は完全に満たしているのですが、英語力については半年間語学留学をしたという情報しかありません。

半年間の語学留学は事実であり、会議の参加者が「知っていること」です。ただし、知っていることを揃えれば皆同じ結論になるかといえば、そうはなりません。論理は事実を前提に照らして結論を引き出すことであり、事実が同じでも前提が違えば結論が違ってきます。

「まあ大丈夫だろう」という人はこのように考えています。

  • 事実:Aさんは半年間語学留学をした ← 知っていること
  • 前提:半年間語学留学をした経験があれば海外支社で働けるだろう ← 信じていること
  • 結論:Aさんは海外支社で働けるだろう

この結論を信じられるかどうかは、前提を信じられるかどうかにかかっています。このままでは信じられない人も多いでしょう。

そこで通常は「○○なら海外支社で働けるだろう」という前提に納得できるような事実を集めます。英語力検定の点数が前任者を上回っているという事実があれば、納得する人は増えるかもしれません。

ただ、事実を詳細化していっても前提が必要という構図は変わりませんし、前提である以上疑う余地が残ります。突き詰めれば、Aさんの異動についての判断は「○○なら海外支社で働けるだろう」という前提を信じられるかどうかにかかっています。

知っていること、信じていること、そして感じていること

冒頭のフレーズは「認識している事実は同じでも、置いている前提が違う人たちの戦い」と言い換えられるわけですが、「知っていることは同じでも、信じていることが違う人たちの戦い」というわかりやすい言葉づかいだったので印象に残りました。

※もっとも、人は信じていることつまり信念のレンズを通して世界を知るので、「知っていること」すなわち事実とは言い難いのですが、ここでは踏み込まないことにします

その「知っている」「信じている」という言葉づかいから知情意を連想しました。知っているは知、信じているは意のはたらきとすると、残りの情、つまり「感じている」は人の判断にどう影響するのでしょうか。

実際、人は知っていることと信じていることだけで判断するわけではありません。先述の例で言えば、社員情報に添えられた顔写真を見て「お、Aくんはいい面構えをしているな。これならがんばれそうだ」などと感じる人がいるかもしれません。

「いい面構え」は印象であって事実ではないし、「いい面構えの人は海外支社で働けるだろう」という前提に納得する人もいないでしょう。それにもかかわらず、人はそういった感情がもたらす情報を組み入れて判断しています。たとえ除去したいと思っても無意識のうちにその影響を受けています。

ちょうど読んでいた、プリンストン大学のアレクサンダー・トドロフ教授による 『第一印象の科学――なぜヒトは顔に惑わされてしまうのか?』(みすず書房、2019年)は、人の判断がいかに第一印象に依存しているかについて掘り下げています。

教授が手がけた有名な実験に、顔写真を一瞬見ただけで大統領選の結果を予測できるというものがあります。たとえばわれわれが、まったく知らない国の大統領候補者の顔写真を数秒だけ見て当選者を予測すると、偶然以上の確率で的中するそうです。複数の研究者がことなる状況設定で追試をして同じ傾向が得られているようですので、(1) 第一印象には国を超えた普遍性があり、かつ (2) 第一印象が人の(本来慎重であるべき)判断に影響を及ぼしているといえそうです。

この普遍性が顔から性格や能力を判定できるとする「観相学」を生み出したのでしょう。観相学は、ヨーロッパで大流行した時期もあったそうですが、今では学問として認められていません。小さく不安定な原始コミュニティで長らく暮らしてきた人類は初対面の相手を素早く判断するヒューリスティクス(簡便法)を培ってきたのでしょうが、現代では役に立っていません。

「感じ」をどう補正するか:皆が同じならバイアスを疑う、自分だけ違ったら由来を掘り下げる

本書からの学びはまたあらためてまとめます。顔だけでなく経歴、本人の言動、われわれはさまざまな情報に触れるたびに(うん、いけそうだ)(ちょっとどうかな……)といった、言葉にならない情動シグナルを受け取ります。それらのどれを信用し、どれを疑うべきなのでしょうか。

『第一印象の科学』を読んで一つヒントになりそうだと感じたのは、第一印象の普遍性です。表情と感情の結びつき(例:笑顔は喜びを表す)にも普遍性があることが知られています。情動は古い仕組みなので高い普遍性があるのでしょう。

一方で、人は経験を蓄積することで情動システムを発達させます。過去の経験とその帰結が、そのとき感じた情動とともに記憶されます。そして過去の経験に似た状況が出来すると、そのときの情動が呼び起こされ、帰結の予測を助けます。このようにして培われたパターンは個人に固有のものです。

このように、状況に応じて立ち上がる情動には人類に普遍の要素と個人に固有の要素があることを踏まえると、「全員が同じ印象を持ったら疑うべき」というルールが導けるのではないでしょうか。

たとえば先述のケースで、全員がAくんはいい面構えをしていると感じているならば、それは人類普遍のバイアスがかかっている可能性を疑うべきでしょう。

一方、皆はいい面構えをしていると感じているのに自分はそう感じないとしたら、自分固有の経験が介入している可能性があります。もしそうであれば、自分なりには根拠のある直感ということになりますから、なぜ皆と同じように感じなかったのか、経験を思い起こしてみると有益な情報が得られるかもしれません。

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