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コンセプトノート

585. 善いものを好きに、悪いものを嫌いになる

情動に基づく判断力は、最後まで失われない

終末期医療に詳しい大井 玄は、著者『呆けたカントに「理性」はあるか』で、重度認知症を患った高齢者の言動を紹介しながら理性について論じています。

胃ろう(おなかに小さな穴を空けて管で栄養をとること)を付けることに賛成か。こういった問いに対し、重度認知症の高齢者の回答も通常の高齢者と同じ分布を示すことなどから、認知能力が衰えた状態でも人には健全な判断力が残っており、言語コミュニケーションができる限りは本人の意向を聞き、尊重すべきとの結論に達しています。

最後まで失われない判断力とは、どのようなものか。簡単に言えば「好き嫌い」です。

自分の身体、とくに生死に影響するような、生存に直接かかわる事柄について「好き」「嫌い」を表明する能力は、その人固有の能力で、最後まで保持されます。(P54)

好き嫌いをもたらすのは、快不快です。人はもちろん、原始的な生物にも快不快の情動が備わっていることが知られています。人間のように「ドキッ」というような感覚かどうかは別にして、近づくべきか遠ざかるべきかの行動を促す通知システムを持っているのです。著者は情動を次のようにまとめています。

生存に有益な環境刺激(情報)に向かう行動には「快」「好き」という内部感覚が生じ、有害な刺激から逃れようとする行動には「不快」「嫌い」という、感覚が生じている。その内部感覚も、行動も、さらにそれを起こしている生理的変化もすべて含めて「情動」というのです。(P60)

ぼけても礼儀正しかったカントを支えたもの

罪や恥といった情動は種の社会化に伴って生まれてきたと考えられていて、社会的情動と呼ばれます。

人は社会生活を営む哺乳動物ですから、環境刺激(情報)といっても、その属する社会や共同体、グループの人間関係に関連して与えられることが多く、それによる情動が日常的に生じます。 かわいそう、きまり悪い、恥ずかしい、羨ましい、けしからん、憎いなどで、これらを「社会的情動」と呼ぶことができます。(P63)

社会的情動は、定義からして、その人が生きる社会の価値観に依存します。またその成り立ちからして、相当程度後天的な経験の積み重ねで獲得されるものと考えられています。たとえば、過去に恥をかいた経験が、似たような状況になったときに特定の情動を呼び起こします。言語化するなら「このままいくと恥ずかしい思いをすることになるかも」という通知をしてくれるわけです。

著書では、哲学者カントの晩年のエピソードが紹介されていました。カントは今でいう認知症となり、長年の知己に会っても、彼を認識できませんでした。しかし、名前を尋ねるその態度はとても礼儀正しいものだったといいます。彼の著作を支えた高い認知的能力が失われたあとも、社会的情動に基づいた判断力は健全に機能し、彼の生活の社交面を支えていたのです。

情動による特定の行動のお勧めは、直感と呼ばれます。著者は脳科学者の池谷裕二の言葉を引くかたちで、直感の特徴を三つ挙げています。

  • 判断が速い
  • ほぼ正しい
  • 経験によって鍛えられる

善いものを好きに、悪いものを嫌いになる

情動、特に社会的情動は経験(と内省による解釈)で育てることができる。そして情動に基づいた直感的な判断は、認知が衰えた状態でもはたらく。

こういった知見を集めるにつけ、ものをしっかり考えられるときに、判断の基準(参考:「のぞき見の目、身代わりの目、直観の目で決断する」)について考えておき、できればそれを好き嫌いの感情と結びつけておきたいと思います。

別に老後に備えようというわけではありません(備えになれば嬉しいですが)。一時的ではありますが、誰でも日常的に認知機能が働かなくなる瞬間があるからです。

たとえば、厳しい時間的な制約の下で判断を迫られるとき。高いプレッシャーが掛かった状態で判断を迫られるとき。いわゆる「頭が真っ白な」「頭に血が上った」状態です。

こういうときには、まったく動けなくなってしまったり、逆に条件反射・脊髄反射と言われるように、よく考えずに動いてしまったりします。

しかしそんな瞬間でも、いやそんな緊急事態だからこそ、情動はシグナルを送り続けています。何しろ、根本的には生存のための仕組みなのですから。

もちろん、本ノートでさんざん書いてきたように「一拍置く」ことを実践するのは重要ですが、完全に気持ちを落ち着かせて認知能力を取り戻すのが難しいケースでもあるでしょう。そこで情動の声に、つまり直感に従って判断する。言ってみれば「好き嫌いで」決めてしまう。あまり褒められた決断のスタイルではありませんが、もしそうするしかなくなったときのために、頼れる直感を育てておきたいと思います。

個人的には、倫理的な、つまり善悪の判断について、よく考えた判断と直感的な判断を一致させたいと思います。つまり、善い悪いを好き嫌いで決めても齟齬がない、ということです。

善は主観的なもので、かつ個人的な善(良心)もあれば社会的な善(道徳)もあります。自分は何を「善し」とするのかを注意深く考え、それに対して「好し」という感情を向けていくようなトレーニングを、考えてみたいと思います。