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コンセプトノート

109. 「スロー」は「ゆっくり」なのか、そうではないのか

スローフード、スローライフ、スローワーク、スロービジネス、スローキャリア、などなど、「スロー○○」と名の付くものが多くなってきました。我が家の最寄り駅の美容院もSLOWという店名になりました。

「スローというのは『のんびり礼賛』なんだね」
「いや、そうじゃなくて、量やスピードよりも質を追求することは何でもスローと言っていいみたいだよ」
「”slow”って言ったら、『遅い』という意味以外に無いじゃない」
「でもとにかく『スローイコールのんびり』じゃないんだよ。例えば、最近読んだ『スローキャリア』という本にはこう書いてあるよ」

スローフードというのは、上昇志向とか目的合理性によってドライブされる食生活とは決別し、人間らしい食のスタイルを取り戻そうということなのであって、ファーストフードのアンチテーゼであり、ゆっくり食べるという意味ではないのである。
 だからこのスローフードと私の提唱するスローキャリアの概念は、ともに価値合理性へのこだわりがあり、数字に表れない部分を大切にしようとしている点でも、基本的に一致しているといえる。
(下線は引用者)

「う〜ん、アンチ『ファストフード』だからシャレで『スロー』にしたってこと?」

よく分からないままに、わたしもスローワークの実践者として取材を受けたことがあったりします。思い立ったが吉日、今日は「スロー」について調べてみることにしました。

はじまりは「スローフード」

記憶と簡単なサーベイによると、「スロー○○」の始まりは1986年にCarlo Petrini氏がイタリアで立ち上げたSlow Foodという運動。

経済合理性の象徴としての「ファストフード」に対して「スローフード」という言葉を当てはめたわけですが、単に
・アンチ「ファストフード的なるもの」
ではなくて、
・スロー(ゆっくり)であること
自体をも礼賛しています。

例えば同サイトの「私たちの哲学」というページを読むと、先頭に”In Praise of Slowness”(「ゆっくり」を讃えて)という文章があります。(ちなみにその他には、”Rest”(休むこと)と”Hospitality”(もてなしの心)を讃えています)

Slow Food運動は「ゆっくり」の代表選手であるカタツムリをトレードマークとしています。自らの家を背負ってゆっくり移動するカタツムリのライフスタイル(?)は、我々に、「ゆっくり」が本質的な美徳である ―どんな状況にも適応し、居場所を作り出せるという点で― ことを教えてくれる、そうです。

(参考)
Endangered Species: Slow Food – An interview with Carlo Petrini
(New York Timesのインタビュー記事)

アンチ「ファストフード的なるもの」

スローフードの提唱者は辞書どおりの意味で”slow”を使っていたことが分かりちょっとすっきりしました。

しかしそれ以外の「スロー○○」では、アンチ「ファストフード的なるもの」という意味あいの方が強い。ここに(わたしの個人的な)混乱の元があったようです。

「反」Fast = Slow ですが、
「非」Fast = いろいろあっていい ですよね。

たとえば『『スローキャリア』―上昇志向が強くない人の生き方論』を読むと、たしかに自分は、著者の高橋さんが「スローキャリア」と定義した価値観を持っているなと思います。スローワーカーと言われるのも無理はないかなと(笑)。

しかし同時に、たまたま非「経済合理的」な方向だとしても、別の上昇志向を持ってセカセカ動き回ってもいます。自分のスタイルは「スロー」という語感からはかなり遠いと感じます。

「スロー」がアンチ「ファストフード的なるもの」を意味しているとは理解していても、「スロー」から「ゆっくり」というニュアンスを外すことはできません。実際、字義通りの「ゆっくり」を大事にする「スロー○○」もあるわけです。であればいっそ「スロー」という言葉でない方が簡単ではないでしょうか。

「スロー」よりは、上記の本で挙げられていた「価値合理的」という言葉の方がしっくり来ます。自分が認めた価値なので、「自価合理的」はどうでしょうか。

自価合理的というとなんだか自分勝手みたいな語感もありますが、そうではありません。経済的なモノサシによらず自分を活かす道を探すことだと考えると、チャールズ・ハンディの言う「適切な自己中心性」という言葉につながってきます。

適性に自己中心的であることは、最終的には、自己を越えたもっと大きな目的を見出すことによって、自分自身を最大限に活用するという責任を受け入れることだ。
『もっといい会社、もっといい人生―新しい資本主義社会のかたち』