体力低下=老い、ではない
わたしはかつてないほどよく考え、計画をたてることができるのだが、計画 し考えたことを実行することがもはやできないのだ
(『家族のゆくえ』p163、吉本隆明、イェイツの言葉の引用)
79歳の吉本隆明氏は自らの老いを観察し、老齢者を下記のように定義しています。
したがって老齢者の定義は――「頭や想像力で考え感じていること」と、それを「精神的にか実際的にか表現すること」とのあいだの距離が普通より大きくなっている人間、となる。そう定義するなら、まず間違うことはないとおもう。
『家族のゆくえ』
この前後に、体力的な老いを実感している文章があります。体力はたしかに衰える。しかしそれ以上に、人間の「老い」は、上記のような「思考と表現の距離が大きくなってしまうこと」として現れる。そう書いています。
実際、ホワイトカラーの仕事に限定すれば、我々の肉体というハードウェアの性能は、そう簡単には落ちないようです。
視力、聴力、タイピングなど物理的な職務遂行能力について障害が発生する割合は、米国商務省の調査では若年層と六五歳未満までの間では一%以内の差しかない。(略)六五歳以上ではさすがに三項目とも障害の発生率は上昇するが、それでも全体の数%程度の発生率でしかない(p273)
『パラサイト・ミドルの衝撃 ― サラリーマン45歳の憂鬱』
『パラサイト・ミドルの衝撃 ― サラリーマン45歳の憂鬱』では他にも日本人についての興味深い調査結果を引用しています。
・「一晩寝れば疲労が回復すると回答した者の割合」は50代、60代が20代を上回った(H12年版労働経済白書)
・日本の40〜64歳においては、体力年齢が暦年齢より若い人が増えている(平成15年度体力・運動能力調査)
老化とは、チャレンジ精神の喪失
老人とは、吉本流に言えば「思考と表現の距離が大きくなってしまった人」。あるいは冒頭で引いたイェイツの言葉を解釈すれば、「計画はできても実行できなくなった人」。そう定義することができます(イェイツが実際に老いを嘆いてこの言葉を発したのか、わたしの調べが及んでいません)。
ではなぜ、老いると実行できなくなるのでしょうか。
まず「体力」が無くなったからという理由は、吉本氏の実感から言っても、また前述の調査から言っても、第一の因子ではないようです。
次に考えられるのは「時間」。余命(あくまで「平均」余命に過ぎません)が短くなってきたという事実は、実行力を低下させる原因になるのでしょうか。
吉本氏は、実行力の衰えは余命の短さから来るものではないと述べています。
ただ余命がなくて実行できないと考えるより、計画することと実行することの距離が大きくなってきているからできないと解釈したほうがいいとおもえる。(p165)
残り時間の短さは、実行力を衰えさせるどころか、駆り立てる要素にもなります。下記は、冒険家の三浦雄一郎氏が101歳で亡くなったお父様の晩年を描写した言葉です。
九十歳過ぎて仲間をどんどん増やしていた。百五歳までは滑っていたい。それが父の目標、生きがいだった。その夢の大きさ、またハードルの高さが生きる力を呼び起こしてきた。
(『私の履歴書』三浦 雄一郎、日本経済新聞 2006年9月1日朝刊)
老いが実行力低下だとして、
その原因が「体力」でも「残り時間」でもないとしたら、
何が人を老いさせるのか。
チャレンジ精神の喪失、という言葉が妥当のように思えます。
計画はできても、実行できない。
実行しない「合理的な」理由は多々あるでしょう。
家族の存在、資金の制約、計画の実現可能性など。
不安や恐怖、億劫さといった「心理的な」理由もあると思います。
しかし一旦、原因を措いて結果だけを振り返ってみましょう。
「思考と表現の距離」を老いの物差しとするならば、
考えたことを実行しないのが、「老い」です。
ここ数年を振り返って、
あなたは自分をどう評価しますか。