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コンセプトノート

114. ローランド・ヒルという社会起業家

『パラドックスの時代―大転換期の意識革命』のあとがきは、近代郵便制度の父と呼ばれるローランド・ヒルというイギリス人についてのエピソードで始まっています。

これが実に「起業かくあるべし」というお手本のような話で、とても印象的です。引用するにはかなり長いのですが、名文でもありますし、絶版になっていて買って読んでくださいとも言いづらいので、丸ごと引きます。

 わたしの妻の先祖はローランド・ヒル卿で、一八四〇年代にペニー郵便制を創設し、郵便切手の発明者として有名な人物だった。ヒル卿が姿を現すまでは、手紙の値段はその目方と運ばれる距離によって決められていたが、これはよく考えてみるとむしろ論理的であり、また料金も受取人が支払っていた。たとえば、ロンドンからエディンバラまでの手紙は一シリング六ペンスかかることになり、当時では相当の金額だったが、長距離だったから当然でもあった。頭のよい人たちがいて、空の封筒を家族宛に送ったものだった。すると、家族はそれが届いても支払いを断る。聞きたかったこと、つまり愛する者が生きていることがわかったので、もうそれでよかったのである。こうしたことでコストはさらに高くはね上がった。その結果、金持ちだけが互いに手紙を送る余裕があるというようになった。手紙を書くことはエリートの気晴らしとなった。
 ローランド・ヒルは、逆転の発想をしてみようと提案した。もし、どの手紙が英国中のどこへ運ばれようとも、その値段はわずか一ペニー、そしてそれが事前に買って貼りつけることのできる「切手」で前払いされれば、そこで二つのことが起きるだろうと主張した。――第一に、郵便量がものすごく増大して遠距離配送の費用による損失をも十分補って余りあることになること。しかしもっとも重要な点としては、第二にだれもがお互いに手紙を送れるようになることが挙げられた。これは、だれもが読み書きを習うという点でも、ある程度の実践的な意味があるので、教育に対しても大きな励ましになるだろう。それはさらに友人がお互い同士で、母親が子供に、妻が遠隔地にいる夫と連絡を保てるようになるので、国民の団結心を助けることにもなるだろう。それは単に商業上の成功だけではなくて社会改革の重要な一因ともなろうと言ったのである。
 だれもその言葉を信じなかった。議会を説得して変更させるまでに何年にもわたる議論とキャンペーンの展開が必要だった。しかし、ひとたび改革が行われると、その結果は劇的なものだった。一〇年と経たないうちに約五〇もの国がきっての事前購入というアイデアを採択し、ここに近代的な郵便業務が誕生した。ローランド・ヒルは立派な栄誉を与えられて亡くなり、ペニー郵便制の父として今日まで記憶されている。
 だが、この話について面白いのは次の点である。ローランド・ヒルがこの運動を興した時、本人は郵便業務には携わっていなかったことである。南オーストラリア委員会の一書記だったし、その前は父親の学校の教師だった。郵便業務には何の係わり合いもなく、全く関知するところではなかった。金持ちでもなかったし有名でもなく影響力もなかったが、一つだけ、こだわることがあった。やらなければならないことがあると悟り、もしそれについて何もしなければ、自分自身に対しても我慢ができないと心に決めたことだった。我々は山が動くのを待っていることはできない、自分でそこへ登っていかなければならないのだ。

・合理的な仕組みが(利己的にふるまう人たちのせいもあって)機能不全に陥っていた
・ある個人が、あるイノベーションによって、商業上の成功と社会改革の両方が成し遂げられると確信した
・その個人は、その道の素人だったが、強い意志を持って活動をやりとげた
・ひとたび価値が認められると、爆発的に普及した

起業の、とりわけ社会起業と呼ばれるタイプの起業のサクセス・ストーリーとして完璧でしょう。

このようなエピソードは、人を大いに勇気づけます。その一方で、
「自分にはそこまでのアイデアや志や根気の持ち合わせがなさそうだ」
と感じさせたり、これまでの歩みや人生の残り時間を考えて焦りや憂鬱な気持ちを誘いかねない話でもあります。

チャールズ・ハンディはそこを見越して、次のように続けています。

 しかしながら、われわれのすべてが社会改革者になるべく運命づけられているわけではない。オックスフォード司教のリチャード・ハリーズは、もう一つこんな話もしている。かつて、ハニポールのズジャと呼ばれたラビ(訳注=ユダヤ教指導者)がいた。自分に才能がなく、モーゼのような人になれないことを嘆きながら毎日の生活を送っていた。ある日《神》がやってきて慰めてくれた。「次の世界では、だれもなぜお前がモーゼになれなかったかなどとは聞かず、なぜズジャになれなかったかと尋ねることだろう」。われわれは神ではない。何でもできるわけではないし、この世のわずかな期間ではほとんど大したこともできない。充実した自分になること、完全なドーナツに、そして中に身が入っているレインコートになれるように、できるだけやるということだけなのである。

(「ドーナツ」や「レインコート」は本文で紹介されている言葉なので読み飛ばしてください)

なぜ自分であろうとせず、他人になろうとしてなれないと嘆くのか。
しばしば自分に問うに値する問いですね。