「自分の専門性から降りることをする人をプロとする」。
プロというのはひらたく言えば専門性を活かして飯を食っている人です。ただ
(1)専門性があることと、
(2)それを活かして飯を食う(他人に価値を認めてもらう)こととは、
同じではありませんよね。冒頭の言葉にはその辺りの呼吸がよく表現されていると思いませんか。
田口 「自分の専門性から降りることをする人をプロとする」と「べてるの家」の精神科医である川村先生が言っていた。専門性をもっている人は専門性から降りられなくなって、破たんするんですよ。目の前に患者がいて、精神科医だったらこの患者を治さなくてはいけないと思ってしまう。その専門性から状況に合わせて一旦降りることができるのはプロだとおっしゃっていて、すごいと思った。
そのとおりじゃないですか。専門性から降りられなくて、専門知識だけで何かやらなくてはという脅迫観念におびえるかのように何かをやってしまい、労働の質を非常にせばめてしまう。
(玄田有史氏×田口ランディ氏『火がつかなければ誰だって無能の人』)
『手に握っているのがハンマーだけだったら、問題という問題がぜんぶ釘に見えるだろう』という話を聞いたことがありますか?わたしは、起塾の講師をお願いしているmasato-shoさんから最初に聞きました(『マッキンゼー式 世界最強の仕事術』にも載っているようです)。
これは、手持ちの(往々にしてたった1つの)やり方・ツール・知識だけで全ての問題に対処しようとしてしまう性向への戒めの言葉です。専門家ほどこの罠に陥りやすい。
しかし、およそ組織としての「意思決定」というものは誰か一人、あるいは何か一つの専門性の枠の中で完結できるものではありません(医療の世界も、一人の医師の専門性の中だけで患者が治せるとは限らないという点は同じでしょう、きっと)。
そのとき、釘打ちの専門家としてのスキル(ハンマー)を手放す必要はありませんが、同時にその限界をも見極めて、真の問題解決のために必要な道具や仲間を探しに行けるかどうか。そこがプロの存在価値なのでしょう。
しかし仕事の専門性はわたし達自身のアイデンティティと深く結びついているがゆえに、「プロ」になるのは言うほど簡単なことではありません。
上で引用した対談で、再就職がなかなかできなくて苦しんでいらっしゃるベテラン社会人の問題を、玄田さんはこのように指摘されています。
プロフェッショナルだ、スキルだというけれども、働くことの本当の根源的な問題は、自分のことを自分の言葉で語れないことから来てるんです。
最近は「職位」(部長など)を自分のアイデンティティと見なして済ませてしまう方は少ないと思いますが、さらに「専門性」から離れた文脈で「プロ」としての存在意義を考える機会はなかなかないのではないでしょうか。
「専門性」を語らずにプロとしての自分を語るというのは、どういうことなのか。それは、手に持っているハンマー(スキル)の自分にとっての用途(目的)を語ること。釘を打って何かをくっつけたいのか、しっかりさせたいのか、穴を開けたいのか、それとも壊したいのか。それを考えてみることだと思います。
仮に自分のハンマーが「広告宣伝」だとしたらどうでしょう。IR何年、PR何年やりましたという以外に自分の仕事を自分で語る方法はあるでしょうか。
例えば、広告宣伝の仕事をしていて面白いと思うのはどんなことか。
- 会社の価値を「正しく」(間違いなく)伝えることなのか、
- 会社のダイナミズムを「速く」社会に伝えることなのか、
- とにかく「広く」知ってもらうことなのか。
いろいろありますね。
専門性を離れて考えてみることは、自分が仕事に見出している楽しさを改めて考えるきっかけにもなりますし、スキルアップやキャリアチェンジの方向性を考える材料にもなるでしょう。
例えば、ハンマーが自分にとって「何かをくっつける」ツールなら接着技術を、「しっかりさせる」ツールなら構造学を、それぞれ学ぶことが自分にとってのスキルアップになります(ずいぶん大雑把な例ですが…)。
また、企業情報を「正しく」把握して外部に公開することが自分の仕事だという風に定義したとすれば、自分の軸をぶらさずにキャリアチェンジが可能な職種が見えてくるかもしれません。
#引用した対談はtsuyoshiさんから教えていただきました。tsuyoshiさんからは起-動線ランチへのリクエストを頂戴していたのになかなかお互いのスケジュールが合わず、今週ようやく四谷近辺で「起-動線カフェ」として実現しました。