ミニレビュー
□ 怒れ日本人
人は違っていて当たり前。その違いが感情の源泉であり、「怒り」もその一つ。著者は日本人は「怒り」という感情を「堕胎する」訓練を積まされていると感じています。堕胎とは激しい表現ですが、著者は不快感を怒りという感情に「育て」、「産み出す(表現する)」べきだと言っているので、一連の文脈の中では非常に説得力のある言葉になっています。
著者は1946年生まれで、キレる子供のさきがけでした。怒らないけれど時々キレていた小・中・高、2年間のひきこもりを含む12年間の大学生活を通じて、怒ることが出来なかった。しかしその後のウィーンでの生活で「怒る男」に大変身したそうです。
そんな著者の語る「怒り」論ですので「なぜ怒ることが出来ないか」をよく知っていますし、さらにこの方は哲学博士ですのでそれを語る言葉を持っています。
わたしがハッとしたのは、「絶対的に正しい怒りはない」というくだり。
ひとは怒るべきだと私は確信しています。正しい怒りでなくても、怒りを感じたらそれを圧し殺すべきではない。このことは、世の中に完全に正しい怒りは原理的にない、という私の信念にもとづいています。いかなる怒りも、完全に正しくはない。いかなる怒りにも、怒りをぶつける相手に対する偏見があり、自分は相手より「まともな」人間であるという思い上がりがあります。
私の言いたいことは、だから怒るなということではない。完全に正しいことのみしようとするなら、われわれは何もできない。現実に生きていくことは、たえまなく正しくないことをすることです。この現実とは、比較的正しいことをしている(と思っている)人が、比較的正しくないことをしている(と思っている)人を裁きつづける世界。すべては相対的なことです。
私の提言は、このことを自覚して怒るべきだ、少なくとも怒ったあとでこのことを腹の底まで自覚すべきだ、ということに尽きます。
そして、なかなか伝えるのが難しいのですが、だからこそわれわれは安心して怒ることができるのではないか。自分が絶対的に正しいと信じてする行為ほど恐ろしいものはない。悪魔的暴力をふるうものはないのです。魔女裁判も、十字軍の遠征も、強制収容所も人々が正しいと確信していたがゆえに、あれほどの猛威を奮ったことを忘れてはなりません。
(太字は引用者による)
わたし自身、怒ろうとして思いとどまるシチュエーションを考えてみると、「俺も怒るほどリッパな人間じゃないし」とか「怒るほど事情に詳しいわけでもなかったし、身内のハナシでもないし」とか思うことが多い。これは「怒る以上は絶対的に正しい怒りでなければならない」と思っているからということになります。だからしっぺ返しが恐ろしい。
逆に言うと、「絶対的に正しい」と思えるときには、たしかに残酷なまでに怒ってしまうこともあります。子供が言い逃れのできないような悪さをしたと思ったときなんかはそうですね。これからは一拍置いて「これは魔女裁判になってないか?」と自問せねば。
□ 普遍的な「技術」書ではないが有用
『○○の技術』という書名は流行しました。「技術」として誰でも使える方法論あるいはテクニック集を期待させてくれるからだと思いますが、この本は「技術」書というよりは敢えて言えばエッセイ集に近い。本の最後にこうあります。
(略)ですから、すべての人に勧められる代物ではないのですが、そしてだれひとりとして私のようにならなくていいのですが、一つの参考資料として、これからの人生において(反面教師でもいいから)役立てていただければ幸いです。
言い換えれば、『この本は私のパーソナルな「怒り」の技術論です』ということですね。
こういう本は少ないので、面白かったし役に立つと思いました。怒りを「感じ」「育て」「表現し」「伝え」「受けとめる」という、ライフサイクルに沿って解説し、最後には「怒らない技術」を提唱しています。
わたしは結構怒るほうだと思いますが、それでも怒り足りないような気がしてきました(笑)。
# 些細な話ですが、「おこる」技術じゃなくて「いかる」技術です。個人的には「おこる技術」と言われると単なる叱りのテクニック、「いかる技術」だと「怒」という感情を扱うテクニックというように感じます。ですから「いかる」で嬉しいんですが、表紙にはどちらとも書いてありません。