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「聴く」ことの力―臨床哲学試論


ミニレビュー

「臨床哲学試論」というサブタイトルを見逃してしまい、『「聴く」ことの力』というタイトルだけに反応して読み始めてしまいました。
(引用)
(略)エクリチュールとしての対話法がめずらしいと言いたいのではない。哲学が論文や演説からはじまるのではなく、だれかの前で、だれかとの語らいとしてはじまったということ、そのことが重いのだ。

どうですか、ちょっと哲学書っぽいでしょう。

言葉遣いがやや難しく、集中しないとなかなか言っていることが分からなかったりしましたが、第三章、『遇うということ』を特に興味深く読みました。下手に要約を試みるよりは引用を幾つか並べた方が伝わるものがあるでしょう:
『(略)じぶんのうちをいくら覗き込んでも、なにかこれがじぶんだ、といえるようなものに出会えるわけではない。』
『(略)自己の同一性、自己の存在感情というのは、日常的にはむしろ、(眼の前にいるかいないかとは直接は関係なしに)他者によって、あるいは他者を経由してあたえられるものであって、自己のうちに閉じこもり、他者からじぶんを隔離することで得られるものではない。』
『他者から隔離されたところでは、ひとは<自己>を求めて堂々めぐりに陥ってゆく。みずからの尾を呑み込みつづけるウロボロスの蛇のようなグロテスクなかたちでしか、じぶんにかかわれなくなるのだ。』
『アイデンティティにはかならず他者が必要だ、わたしがだれであるかということ―(略)―は他者との関係のなかではじめて現実化される(略)』
『求められるということ、見つめられるということ、語りかけられるということ、ときには愛情のではなくて憎しみの対象、排除の対象となっているのでもいい、他人のなんらかの関心の宛て先になっているということが、他人の意識のなかで無視しえないある場所を占めているという実感が、ひとの存在証明となる。』