「値段がつけられないほど貴重なものを値踏みする」
いわゆる「難しい選択」の構造がよく理解できる解説を見かけました。
どの道を選んでも自分の幸せを必ず損なうような選択が存在することを、わたしたちは経験的、本能的に知っている。これがあてはまるのは、選択が避けられない上に、どの選択肢も望ましくないという状況、特に自分の大事にしているものを、「絶対的価値」(worth)ではなく「相対的価値」(value)という観点から考えることを強いられるような状況だ。(略)「『絶対的価値』(worth)とは、自分が大切にしていて、値段がつけられないものに、もともと備わっているものだ。これに対して『相対的価値』(value)とは、あるものをほかのものと比較することによって導き出すものだ」
シーナ・アイエンガー 『選択の科学』(文藝春秋、2010年)
見出しとして引用した「値段がつけられないほど貴重なものを値踏みする」というのが端的な表現ですね。それを強いられるとき、われわれは深刻な葛藤に陥ります。この本では、深刻な選択を迫られた夫婦の事例を紹介しています。出産時のトラブルで、赤ちゃんの脳機能が損なわれてしまったのです。呼吸ができないので人工呼吸器と栄養管なしでは生きられません。生命維持装置につながれた植物人間として赤ちゃんの命をつないでいくか、それとも……。
著者は次のように問いかけて、この選択の困難さを読者に追体験させます。「子どもの現在と将来の苦しみを足し合わせたものが一体どれほどであれば、死の方が望ましいと判断すべきなのだろう?」「治療継続の判断を下すためには、どれだけの希望が、つまりどれだけの生存率や回復の見込みが必要なのだろう?」「決断を下すとき、ほかの子どもたちにかかる感情的ストレスや経済的負担などの影響も考慮に入れて検討すべきだろうか?」
人はみずから選択をしたがるものです。わたしもそうとうな「自分で決めたがり屋」だと思っています。しかし我が子の運命を決めるような重大な選択については、専門家に部分的に選択を委ねた人のほうが選択後の否定的感情が少なかったという実験結果が出ています。何もかも自分で決めた(決めざるを得なかった)場合は、選択についての確信度は高いものの、選択後の否定的感情もまた高いという結果だったそうです。
この章には「選択の代償」というタイトルが付けられています。著者は「選択の自由は、精神的、感情的な代償を伴うことが多い」ので、重大な決断については専門家に選択肢を提供してもらったり、選択肢の評価をしてもらうなどの方法を勧めています。
worthとは企業であれば理念であり、個人であれば「ありたい自分」ということになります。value から見ると甲乙つけがたいような選択については、明確な worth を持つことで選択に自信を持てます。しかし、worth が強ければ、それだけ重大な選択に際しての葛藤も深くなるかもしれない。その選択の責任を自分で負える精神的な強さがなければ、選択の重みに潰されてしまうこともある(著者はその例として有名な映画『ソフィーの選択』を挙げていました)。いろいろと考えさせられる文章でした。
worth は worth
worthをvalueせざるを得ない状況は日常的に起きています。たとえば「ちょっとポリシー(worth)に反する仕事だけど、請けないと赤字になってしまう(value)ので請けておこう」など。しかし「ポリシーに反する仕事を請けた → ポリシーが緩んだ」というフィードバックを自分でかけてしまうと、ますますworthがworthでなくなっていってしまいます。
過去にどんな妥協を強いられていたとしても、worth は worth。われわれが選択を迫られる状況は毎回違うのですから、毎回の選択は一回性のものとして扱うのがよいように思えます。
“worth”と見なすには適当でないかもしれませんが、わかりやすい例で考えてみたいと思います。たとえば、あなたが責任を負っている商品では「値引きはしない」と決めていました。しかし「いろいろあって」A社にだけは値引きを提供することを選択しました。それを知ったB社が、同じだけの値引きを求めてきました。どうするべきでしょうか。
わたしは、A社のときと同じように考えるべきだと思います。これは「A社に対しては値引きした」という事実を考慮せず、B社が値引きを求めてきた初めてのケースであるかのように考える、ということです。ここで判断の根拠に「A社に対しても値引きした」という事実を加えてしまうと、せっかくの worth が worthless になっていってしまいます。
ある選択で強いられたworthの値踏みの結果によって、ずるずるとworthをずらしていくのは好ましくない。でも、そういう個別の選択を重ねた結果、worthと見なしていたものを変更してもいいかなと考えることはあるでしょう。たとえば「○○な値引きはしない」といったように。「(一切)値引きはしない」というポリシーが「○○な値引きはしない」と条件付きになったので、一見すると妥協のようにも思えます。そういうことかもしれません。ただ、本人が判断のよりどころとできる「絶対的価値」であればよいのですから、一概に厳しいほうがよいとも言えないでしょう。