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コンセプトノート

364. 転んでも「大丈夫じゃない」とは言いづらい

大丈夫じゃない

小学校に上がるか上がらないかの頃だと思います。一緒に遊んでいた年下の、たぶん5歳くらいの、ともだちが転んで泣き出しました。わたしが「だいじょうぶ?」と尋ねたところ、その子は泣きながら「ダイジョブじゃない〜」と言うのです。わたしは反射的に笑っていました。子どもごごろにも笑うべき状況じゃないと分かっていたのに、笑ってしまった。だから強く印象に残っています。

きっと、人は「大丈夫?」と聞かれたら「大丈夫」と答えるものだと信じていたのでしょう。年下の遊び相手が少なかったせいもあって、「大丈夫じゃない」と素直に言う人に生まれて初めて出くわして、びっくりしたのだと思います。

昔の記憶がいきなりよみがえってきたのは、エドガー・シャイン教授の『人を助けるとはどういうことか 本当の「協力関係」をつくる7つの原則』にこんなくだりを見つけたからです。

私がいつも驚かずにいられないのは、通りでつまずいたり転んだりした人を目撃すると、彼らの第一声が決まって「大丈夫です」であることだ。明らかに怪我をしている場合でさえ、人は突然、誰かに依存する状態になったことを認めたくないものである。

人を助けるとはどういうことか

なぜ依存したくないのか。この引用文の少し前には『感情的、社会的に見れば、支援を求めた場合、人は「一段低い位置」(ワン・ダウン)に身を置くことになる。』とあります。支援者側は相対的にワン・アップとなります。シャイン教授も『支援できる機会が得られるのは、大きな誘惑なのだ』と書いています。

人を助けるとはどういうことか』では、この不均衡さを取り除くために、主に支援者の立場から、どのような役割を選びどのような問いを発するべきかといった手続き的な考察がなされています。支援する・されることの難しさを実感できる本でした。

自律性が相互依存の条件

「なぜ依存したくないのか」という問いには別の答えを用意することもできます。たとえば「相手に依存することは、相手に自分を統制(コントロール)させる余地を与えることだから」。もしそうならば、つねに「大丈夫です」というのが正しい回答でしょう。

しかし、他者に依存することと他者の統制を受けることは、同じではありません。エドワード・デシ教授は『人を伸ばす力―内発と自律のすすめ』で、自律と独立の違いという観点から望ましい依存のあり方を説明してくれています。

独立性とは、独力で何かをすることであり、他者からの物質的、情緒的支援に頼らないということである。それに対して自律性とは、自由な意志と自己選択の感覚をもって、自由に行動することである。

人を伸ばす力』(太字は、原文では傍点)

依存しないか統制を受けるかという二者択一問題ではないということです。なぜなら、依存していない状態は独立で、統制の反対は自律。ややこしいので具体例を考えましょう。

相手に依存するように統制されている。これは「マインドコントロール」を受けている状態です。
相手から独立するように統制されている。これは「孤立」を強いられているといえましょう。
相手からの独立を自律的に選択している。これはいわゆる「独り立ち」ですね。
相手への依存を自律的に選択している。これはよく「相互依存」と呼ばれます。

デシ教授は相互依存という言葉は使っていませんが、『自律性を保ちつつ依存していると感じるのは自然なことであり、有用なことであり、そして健全なことである』として、人がみずから動機づけられる要素として自律性(自己選択したいという動機)と関係性(他者を思いやりたい、思いやりを受けたいという動機)がともに存在することを詳しく論じています。

安心して「ダイジョブじゃない〜」と言える関係には、統制されるおそれがないことに加えて、もうひとつ条件があります。それは、言う側が相手への依存によって統制しようとしないこと。「ダイジョブじゃない〜」と依存をしてみせ、相手の返報性(依存されたからには応えねばという気持ち)を使って統制しようとしない、ということです。

最適な関係においては、パートナーに何かをしてもらおうと求めたとき、それを当然受けとれるものと期待しているわけではなく、与えなければならないという義務をパートナーに生じさせるものでもない。こうした成熟した関係においては、人々は与えるのも与えないのもまったく自由なのである。

人を伸ばす力