知識ではなく経験に即して話すのが対話のルール
対話を通じて考える方法をやさしく説明している、梶谷 真司氏の『考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門』という本に、氏が実際の対話で参加者に示している「哲学対話のルール」が紹介されていました。
- 何を言ってもいい。
- 人の言うことに対して否定的な態度をとらない。
- 発言せず、ただ聞いているだけでもいい。
- お互いに問いかけるようにする。
- 知識ではなく、自分の経験にそくして話す。
- 話がまとまらなくてもいい。
- 意見が変わってもいい。
- 分からなくなってもいい。
対話の場で意識するには数が多いようにも感じましたが、本文では一つひとつのルールの背景がていねいに述べられています。
気になったのは「知識ではなく、自分の経験にそくして話す」という項目です。このルールは対話を不自由なものにしないでしょうか。
知識と経験の境界はしばしばあいまいです。たとえばAさんが「大組織のリーダーには誠実さが必要だ」と言おうとしているとします。Aさんは大きな組織に属した経験こそないものの、古今東西のリーダーシップ理論やリーダーの伝記を熟読して、大組織を率いて成果を挙げつつ人を育てられるリーダー行動の鍵は誠実さであることを発見し、そのような意見を持つにいたりました。「知識ではなく、自分の経験にそくして話す」というルールに照らして、Aさんは口を開くべきでしょうか。
わたしが対話の輪の中にいたら、Aさんには意見を述べてほしいと思います。岡目八目ということわざの通り、優れた観察者はしばしば当事者よりも本質的な洞察に至ることがあります。大組織で働いた経験はなくても、豊富な読書経験を実経験の代替として認めてあげていいのではないでしょうか。
しかし、いま述べた「観察者は当事者よりも本質的な洞察に至ることがある」というわたしの意見も、先述のルールに則ると「岡目八目ということわざがあるから」で済ませるのではなく、岡目八目を実感した経験を添えないかぎり、他者からすれば知識です。したがって具体的な経験を話す準備ができるまで、わたしは「Aさんには意見を述べてほしい」と言うべきではありません。
かくして対話は、実際の経験豊富な年かさの人ばかりが話をすることに……なってしまうと、どこかおかしくなります。
根拠を自分のうちに見出す
そもそも第一のルールは「何を言ってもいい」です。通常は重要なルールが前に置かれるので、これが優先されるでしょう。「何を言ってもいい」けれど、できるだけ「知識ではなく、自分の経験にそくして話す」ようにしようという意味合いかと思います。
「知識ではなく、自分の経験にそくして話す」というルールをよく理解しようと思い、少しひねくれて、経験と呼べるほどに内在化された知識の例を考えてみました。
先の思考実験を経て、このルールを自分なりに解釈すれば、「一人称で話をする」です。
一人称といっても「自分はこう考える」というだけでは不十分です。たとえばAさんが「大組織のリーダーには誠実さが必要だ」と言ったとき、Dさんが「私も大組織に属した経験はないが、Aさんの意見はもっともだと思うので賛成だ」と言ったとします。Dさんは一人称で語ったことになるのか。自分の考えを述べているのか。
ちょっと怪しいぞ、と感じます。Aさんの読書経験の中には、一見すると誠実でないリーダーの事例があったかもしれません。理論のなかにも矛盾するものがあったかもしれません。例外があり、限界があることを踏まえたうえで「大組織のリーダーには誠実さが必要だ」という解釈に至ったAさんには、主張から根拠にいたるまで、いわば「一人称性」があります。一方、Dさんも主張は一人称です。しかしその根拠が「Aさんの結論が妥当そうだから」では、「一人称性」が弱くなります。
「一人称性」を意識する、根拠を自分のうちに見出すように心がけて話をすることがなぜ「対話を通じて考える」行為において重要なのでしょうか。
それは、誰かと話しながら考えるためには、相手の考えを理解する必要があるし、自分の考えを説明する必要があるから、でしょう。こういう学説がある、大多数の意見はこうだ、という知識を聞くだけでは、検索エンジンと会話するのと同じことです。意見であっても、大多数の意見がこうだから私も賛成、というだけではやはり同じことです。
では人の考えとは何か。問い(対話のトピック)と答え(意見)のセットであり、答えとその根拠のセットです。そしてその人固有の考えは、根拠をさかのぼっていかなければ明らかになりません。
自分に留まり、相手に留まることでお互いを理解する
根拠をさかのぼっていくと明らかになるのは、いわゆる信念・価値観です。感情的には好き嫌い、意志的には善い悪いの主観的な基準であり「自分にとってそれはそういうものであり、それ以上の理由はない」としかいえない何かです。
ふだん語られることはありませんし、言語化しきれるものとも思いませんし、揺れ動くものでもあると思います。それでも、自分の信念を理解するつもりで話す。相手の信念を理解するつもりで聞く。相手の信念の理解に照らされるようにして、自分の信念がわかってくる。
そういった理解を通じて、自分の考えの由来を知ったり、自分では思いつけなかった考え方を知ったり、もしかしたら自分の考えを変える機会を得られたりすることが「対話を通じて考える」行為特有の産物なのだと思います。
前回の「I・I(アイ・アイ)メッセージ」の結論は、『I メッセージを発する以上は、感情 (I feel …) だけでなくそれをもたらした欲求や思い (because I …) を説明できるようにしておく』というものでした。今回もやや似た結論になりそうです。
私はこう思う (I think …)。なぜなら私は (because I …) こういう経験をしたから。あるいは、経験はないが知識(やほかの経験)を根拠としてこう解釈をしたから。自分の経験は内的なものですから、私 (I) に留まるコツとして「知識ではなく、自分の経験にそくして話す」というルールが導入されたのでしょう。
対話ですから、相手がそのように「私」に留まる努力を支えるのも重要でしょう。たとえば「いや、学説では~」「ふつうは~」といったアドバイスは、本人の探求を深めるために有益かどうかを慎重に考えてから行わないと逆効果になりかねません。
前回(非暴力コミュニケーション)はやや感情的、今回(哲学対話)はやや認知的な側面にフォーカスしていますが、どちらもコミュニケーションの話ではあり、おそらくはそのゆえに、得られた学びも似通っています。この2回を通じて学んだことを何点かまとめておきます。
- コミュニケーションは、言動・表情(感情)など目に見えるやりとりを通じて、目に見えない欲求や信念をお互いに理解することから始まる
- 自分について話すときは、自分に留まる。「あの人のせいで~」と自分の感情を他人のせいにしたり、「あの人が言うから~」と自分の意見を他人に依拠したりしない。できるだけ自分の欲求や信念を言葉にするよう努める。
- 相手の話を聞くときは、相手に留まる。相手が表した感情や意見に反応するのではなく、その感情の奥にある欲求や、その意見の奥にある信念を理解するつもりで聞く。マルバツをつけない。
- そのうえで、お互いの要求や提案をやり取りする。
こう整理してみると、「わかるわかる、私も同じ経験をしたよ」とか「そんな風に感じる必要はないのに」といったコメントが多くの場合無益であり、場合によっては有害になりえることに気づきます。
相手を理解していることを示そうと思って発せられるこういったコメントは、相手も自分と同じような人間だろうという前提に立っています。相手を自分とは違う人間として尊重し、その欲求や信念を深く理解しようとしていない態度の表明だと捉えられてしまうと、発するほど「わかってもらえない感」を高めかねません。