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コンセプトノート

455. AXARA原則

ALARA原則

放射線の危険性について論じた記事で、ときどき ALARA(アララ)というかわいい名前を見かけます。先日読んだ本にもありました。

ICRP(*)の基準のベースになっているのは、これまで見てきた被爆による癌のリスクについての「公式の考え」と、もう一つ「ALARA(アララ)原則」と呼ばれる重要な考えである。ALARAとは、”As Low As Reasonably Achievable” の頭文字を並べたもので、「合理的に達成できる範囲で、できる限り低く」という意味だ。ICRPとしては、「公式の考え」で「線形閾値なし仮説」(**)を採用した以上、どんなに低線量でも放射線被曝は有害だとみなす立場をとることになる。しかし、(自然被爆以外の)被曝をゼロにすることを目標にしてしまうのはおそらくナンセンスだ。(略)さすがにそれは無茶だということで、放射線被曝によって生じうる害と、その他の利益を秤にかけて、上手にバランスさせながら、被曝量をできる限り低くしていこうと考えるのである。
(*) 国際放射線防護委員会
(**) ある程度以上の線量を被曝した場合には、被曝線量が多いほど癌も増加する関係にあることが、調査によって分かっている。しかし被曝線量がごく少なくてもその関係が成り立つかは、まだ分かっていない。そこで被曝線量の少ない領域でも、多いところで見られる関係が成り立っているだろうと仮定する考え。LNT(Linear-Non-Threshold) 仮説とも。

田崎晴明『やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識』(朝日出版社、2012年)

アメリカ保健物理学会のサイトからは、このALARA原則がより大きな枠組みの中に含まれていることを学びました。

その内容を簡単にまとめてみます。ICRPは「線形閾値なし仮説」を採用したうえで、つまりどんなに少なくても放射線にはリスクがあると仮定したうえで、放射線被曝を制限するために考慮すべき3つの要素を提案しています。

一つめは【正当性】。ある人を放射線が照射される環境に置くためには、それを正当化できる理由(たとえば期待される便益)がなければならないということです。例として、自分に合う靴を見つけるために足のレントゲン写真を撮るサービスが挙げられていました。これは正当性の観点から廃止されたとのこと。

二つめは【最適化】。これがすなわちALARA原則です。

三つめは【上限の設定】です。理由が何であれ、これ以上は被曝してはいけないという値を決め、それを守るということです。

AMARA原則

記事で見かけていたときは「合理的に達成できる範囲で、できる限り低く」なんて、当然すぎるように感じていました。わざわざ頭字語を作って原則という名前を冠するほどのものかと。しかし上記のような枠組み作りの過程を学んだあとでは、なるほどこういう原則を明示しておくのは重要だと思えます。

特に【正当性】と【最適化】の2つは、われわれを「思考停止」からうまく救ってくれそうです。

放射線を、ただ「便利だから」という理由で用いるのは、思考停止というよりは「思考なし」でしょう。とはいえ「少しでもリスクがあるものはすべてダメ」というのもまた思考停止のそしりを免れません。【正当性】を考えることは定性的に、そして【最適化】を考えることは定量的に、放射線被曝にどう向き合うべきかを考えさせてくれます。

考えてみると、ほかのことでも明示的に「合理的に達成できる範囲で、できる限り多く/少なく」を、意識するべき対象があります。これらはそれぞれ “As Much As Reasonably Achievable” (AMARA) 原則、”As Little As Reasonably Achievable” (ALARA) 原則と呼ばれるべきでしょう。もっと一般化して “As Xxx As Reasonably Achievable”、つまり AXARA(アクサラ)原則と呼ぶのが妥当かもしれません。

たとえば新しい思考法を学ぶとき、つい「こんなめんどうな考え方を日常業務でやっていたら、日が暮れてしまう!」と感じるときがあります。しかしそれは「すべての考えるシーンで使えなければ学ぶ意味がない」と言っているようなものです。もしかしたら、新しい考え方を学ぶ辛さに脳が悲鳴を上げて持ち出してきた、逃げ口上かもしれません。

そんなときは、AMARA原則を思い出すべきタイミングです。「合理的に達成できる範囲で」できる限りたくさん学びを活かしていこうと考えれば、「すべてのシーンで活かさなければ」という堅苦しさから逃れられます。一方で「できる限りたくさん」なので「まあ、活かせそうな機会を待とう」という怠け心を戒めてもくれます。