相手に意識を向けることで自分を表現する・肯定する
ある会社で、各社員の成果報告を支援する機会をいただきました。報告資料のレビューと、プレゼンテーションのレビューの二段構え。後者は経営陣への模擬報告(10分間の報告とQ&A)を実施し、個別にフィードバックしていきます。
成果報告は、自己アピールをせねばという気持ちが、いわゆる自意識過剰な状態を招きやすく、プレゼンテーションの中でも難しい部類に入ると思います。「自分はきちんと話せているか」など自分に意識が向きすぎると、過度に緊張したり息が上がってしまったりして、結果として本来の自分が表現しづらくなってしまいます。
模擬報告でもそういった悩みが寄せられたので、相手に意識を向けることで相対的に自意識の割合を減らせるというアイディアをお伝えしました。
「自分が、自分の成果を社長に報告する」場ではなく「社長が、自分の成果を理解し納得する」場だと、相手を主語にして考えてみる。相手の理解を支援しようと思うと、自然と話し方や振る舞いもその目的に向けて調整されるはず。Q&Aでも的確な回答ができるはず。おおむねそんなコメントを出しました。
相手に意識を向けることが、結果として自分のためになる。「敬意は人のためならず」というノートで紹介した自己肯定感を高めるコツ(相手のリスペクトが自分のリスペクトにつながる)もそのような論理でした。これらは論理というより実践的な知恵と呼ぶのが適切かもしれません。
自分に意識を向けることで相手に意識を向けられる
しかし一方で、まず自分に意識を向けてから相手に広げようという考えもあります。たとえば慈悲喜捨の瞑想は自分の幸せを願うところから始まります。その気持ちを近しい人から遠い人、さらには生きとし生けるものにまで広げていきます。それが人間一般の心理に沿ったやり方だという説明を、日本テーラワーダ仏教協会のHPから引用します。
悲しいことに人間は自分ひとりの幸せをまず考えますから、お釈迦さまもそのへんのところは十分承知していて、「慈・悲・喜・捨」の四つの心を育てるための“慈悲の瞑想法”もまた自分の心を幸せにするところからはじめていいのだとしているのです。
アルボムッレ・スマナサーラ長老 『慈悲喜捨の瞑想』
この両者の違いは面白いですね。慈悲喜捨の瞑想は、自分の幸せを願う気持ちが、器から水があふれるように他者へと向かい、相手への思いやりにつながります。しかし、先ほどの自己表現や自己肯定のコツは、逆の流れです。相手に思いを馳せる気持ちが、鏡が自分を照らすように自分の表現や肯定につながります。それも結局は自分の幸せのためだろうと言うことはできますが、慈悲喜捨の瞑想の順序では、やはりうまくいきません。
さらにいえば、両者とも想いを馳せる順序は相対的なものだと思います。ひどい状況にある他者に接すれば、まずその人の幸せを願うところから瞑想を始めるのが自然でしょう。社長は自分をよく理解してくれているという安心があれば、自意識過剰になることなく自分の成果を述べ立てられるでしょう。
自他にとって最善の結果に至るためにこう考えるのが正しいという道が一つだけあるわけではないだろう、ということです。
スインギー・ビーイング(揺れ動く我)
相手に意識を向けたり、自分に意識を向けたりしながら、ちょうどいい心のあり方を探す。このプロセスはわたしに「メビウスのメガネ」というノートで紹介した吉川宗男先生のダブル・スイング・セオリー (Double-Swing Theory) を思い出させます。この理論そのものについてはリンク先に譲り、先生が理論構築の基礎に置かれた哲学者マルティン・ブーバーの言葉を引用している部分を引用します。
Buber によれば、人間は基本的には集団主義的でも個人主義的でもなく人間と人間との具体的出来事である「間」の創造物なのである。
吉川 宗男、行廣 泰三 『文化摩擦解消のいとぐち』
人は「間」の創造物だ、という表現は汲み取りがいがあります。冒頭のプレゼンテーションでいえば、社員と社長の間にある具体的出来事は仕事と報酬です。大幅な意訳になりますが、関係性に着目することは自意識過剰から脱する道でもあると思います。つまり、報告すべきはある年度に創出した成果・そのためにとった行動・発揮した能力や意欲などの総体ではあっても「自己」の報告ではない、したがって自己アピールなどと気負う必要はないということです。なぜならば人はいろんな人と人と「間」の創造物なのですから。
さらに、人が「間」の創造物であるという表現は、仏僧ティク・ナット・ハンの「インタービーイング」(Inter-Being、あらゆる存在が相互に依存していること)を想起させます。この連想は、両者の相互依存性に目を向けるアプローチに気づかせてくれます。成果を報告し承認されるという局面だけ取り出すと社員は社長に依存していますが、社長もまた社の成果を挙げるために社員に依存しています。両者の「間」にあり、両者が共に依存して発生させている「仕事と報酬」について合意を形成する場であると俯瞰的に捉えられれば、これもまた自意識過剰に陥るリスクを減らせそうです。
せっかくですので、こういったあり方を忘れないよう、両者を併せてスインギー・ビーイング(Swingy Being、揺れ動く我)とラベルを貼り、心得をまとめておこうと思います。
- たとえばプレゼンテーションであれば、「相手に意識を向ける」のがよいと思っても、決めつけない。自分を起点にしたり、両者の「間」あるいは関係性に目を向けるほうがしっくりくるかもしれない。
- ただし、「揺れ動く」のであって「漂う」のではない。前者には基準点があるが、後者にはない。基準点とは、これまでの経験や知識から編み上げた持論。「相手に意識を向ける」は自分の持論、つまり現時点での最善の方針であり、これを軽んじるものではない。
- 「揺れ動く」のはしばしば面倒でもある。やり方や目的などを意図的に「揺らす」ように試みる。
- ダブル・スイング・セオリーがそうであるように、上から見たら∞を周回していても横から見れば高度を増している、つまり揺れるたびに進歩することを志向する。