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コンセプトノート

629. 象がぬかるみにはまり込むように

沈黙をもって答えとなす

『スリランカ出身の学僧、ワールポラ・ラーフラは、最古の仏典に収められたブッダのことばのみに依拠して、仏教の基本的な教えを体系的に説いた。(略)英語圏最良の仏教概説書』という売り文句につられて、岩波文庫の青本『ブッダが説いたこと』に目を通しました。

『ブッダは、相手の発展段階、性向、精神的特徴、性格、理解能力を考慮して話をした。』と紹介されています。漢訳でいう「対機説法」ですね。さらに文献が引用されていませんが『ブッダによれば、質問への対処の仕方には四つある。』とのこと。

  1. 単刀直入な返答
  2. 分析による返答
  3. 逆に質問を仕返すこと
  4. 保留すること

保留すること、にハッとさせられました。保留する、つまり(少なくともその場では)答えないのも、「説く」という動作のバリエーションなのです。

たとえばブッダは、「宇宙は永遠か?」といった形而上学的な質問には答えませんでした。代わりに「毒矢の喩え」というたとえ話をしたうえで、本質から離れた問題に時間を費やすべきではないので敢えて答えなかったと説明しています。

もう一例、「アートマン(自己)は存在するか?」という質問に対しても沈黙を守りました。この場合は、質問者がまだそういった問題を理解できるレベルに達していなかったので混乱させないために沈黙を守った、と解説されています。

賢明で慈しみ深いブッダは、この混乱した質問者のためを思って沈黙したのである。(略)ブッダの沈黙は、いかなる雄弁な答えよりもヴァッチャゴッタを落ち着かせたに違いない。

象がぬかるみにはまり込むように

最初は、答えをもらえない方が混乱が続くのではないかと感じました。「存在しない」とか「その問いには意味がない」とか、師の見解を渡して理由を考えさせたほうが親切ではないかと。それによって、さらに考え続ける材料がもらえるわけです。

ただ考えてみると、言葉「だけ」で理解を深めていくことには限界があります。

たとえば、あなたが自転車に乗れない友人に乗り方を教えるとします。サドルに座ってハンドルを握ってペダルをこいで……と操作方法を教えても友人は自転車に乗ろうとせず、さらに細かい説明を求めます。ちょっと遠くを見ると安定するよ、といったコツを教えると、ちょっととはどれくらいかと質問してきます。このような言葉の応酬だけでは、友人が自転車に乗れるようにならないのは明らかです。実際に乗ってみて、あるいは高度なイメージトレーニングによって、ある種の身体感覚を作りあげる必要があります。

これはわたしの仕事上でも身近な問題です。たとえば問題解決のステップを学ぶコースで、「自転車に乗ろうとしない」人がいます。「問題」という言葉の定義にはこれが含まれるか否かといった、言葉で(あるいは言葉を)考えるのは好きなのに、実務の場で試すことをためらってしまうのです。自転車と同じく、このままでは問題解決のスキルを身につけることはできません。

さらには、わたし自身の問題でもあります。本をいろいろ読んでみる。わからないところが出てくる。それを明らかにしたくて他の本を探す……。言葉に淫してしまう、とでもいうべき状況に陥ることがあります。

ラーフラ氏は、言葉の限界を描写するためにある仏典を引いていました。

 ことばは、既知のものや考えを象徴するシンボルである。こうしたシンボルもごくありふれたものごとに関してすら、その本質を伝えることができない。ましてや真実を伝えることに関しては、ことばは不十分で、誤解を招くものである。『ランカーヴァターラ・スートラ〔楞伽経(りょうがきょう)〕』には、象がぬかるみにはまり込むように、無知な人たちはことばに囚われる、と記されている。

象がぬかるみにはまり込むように、ことばに囚われる。象がぬかるみにはまり込むシーンを実際に見たことはありませんが、なんとも想像力をかき立てられる、ユニークで適切な喩えのように感じられました。

幸いなことに、ぬかるみにはまり込んだかどうかは、自覚できることが多いと思います。考えが堂々めぐりを始めたり、定義(の定義)がやけに気になったり。それこそ言葉では表現できない感覚ですが。「ぬかるみにはまり込んだ」という感覚は、なにか具体的な行動を試してみるべきというシグナルなのでしょう。