起-動線には、「自分で決める社会人たちへ」という読み物があったり、「自立の志ある個人のネットワーク」を理念に掲げていたり、とにかく「自分発」がキーワードになっています。
いま読んでいる『おとなの学びを拓く』によると、これは自己決定的というのですね。自己決定的であるということは、自分で課題を設定し、その課題を満たすための計画を策定し、実行し、実行結果を評価するということです。
しかし同時にこうも書かれています。
『これらの能力ははっきり言って高度であり、平均的なおとなが学習経験にもちこめる能力とは言いがたい。』
『おとなは自己決定的であることを好む、あるいは自己決定的「でありたいという深層心理的なニーズ」を持っている』、そしてそのプロセスを援助するのが成人教育者の仕事である、という主張もあり、こちらの方が現実に即しているように思います。
我々おとながことごとく自己決定的であるか?。我々自身がよく知っているように、NOです。学びたいと思う特定の分野では可能でしょうが、生活の全ての面で自己決定的であることは、不可能とは言わないまでも非常に難しい。
では自己決定的でない学びとは?これは「依存型」の学習というらしいです。何を学ぶか、どう学ぶか、学んだかどうかをどう評価するか、そういったことを教育者が決めるタイプの学習です。
生活の中で考えれば、ことわざ・生活の知恵に従うとか、親・先輩の意見に従うとか、オススメに従うとか、なるべく「こうしておけば間違いない」という道をパッと選んでおくということだってたくさんあります。例えば仕事が極端に忙しい方が、家族のこと(例えば子供の進学先を考える)・おカネのこと(例えば資産のアロケーションを見直す)・余暇(例えば週末の予定を立てる)のことまで自分で決められるかといえば、現実には難しい。難しいけれど避けられない。何が大事で何がそうでないか、大事でないことの中でもオススメに従うか従わないか、これ全て「選択」です。
そんな中でなるべく自己決定性を高めるにはどうすればいいのでしょうか。起-動線が考えているのは、なるべく根っこの部分でのポリシー(判断基準)を持つということです。
企業の経営者は、(やや理想化すると)まさにそのようにして事業を運営されていますよね。企業の理念を、ビジョンを、明確で一貫性のあるものとして語る。それがマクロにもミクロにも、意志決定の物差しとして社員に伝わる。そのようにすることで自分が何でもかんでも決めずにすむ。すなわち「仕事を任せる」ことが可能になる。
そんな便利なポリシーが簡単に作れたらいいですが、もちろんそうはいきません。ですから「考える。動く。そしてまた」なのです。ちょうどうまい文章がありましたので引用しておきます。
メジローは、成人教育をふり返りと行動のプロセスと定義してつぎのように述べている。「この点からみると成人教育は、おとなとしての役割を果たしている人びとが、表明された考えを確認する理性的な討論に十分かつ自由に参加することによって、自分たちの経験の意味を理解し、そして考えぬかれた洞察に基づいて行動するのを助けるプロセスになる・・・。理性的な思考と行動こそが成人教育の基本目標である」
考えぬかれた洞察だとか理性的な思考だとか、くすぐったい言葉が並んでいますが、起-動線がふり返りと行動の場として機能するようになったら、きっと面白いことが起きてくるに違いないと、ぼんやりとですが、考えています。