「目標を見つけると孤独になる」。最近読んだ、村上龍と各界の専門家の対談集で印象に残った言葉です。
(引用者注:日本は国家として共有できるモチベーションを喪失しているという議論に続いて)
『「希望の国のエクソダス」取材ノート』、太字は引用者
それではどうするかというと、個人個人で自らのモチベーションを見つけていくしかないわけですよ。僕の息子は、北海道の薬科大学に通っているんですが、彼が化学を好きになったのは中学三年生のときで、それから一貫して薬学の道をめざしてたわけです。ところがそうやって目標を見つけると孤独になる、と言うんです。(略)無理もないことで、日本における友達とは、目標のない人が集まって何らかの曖昧な価値観を共有している、ということですから。
分かりますね。中学生に限りません。昼休みに30分ずつ何かしようと思いながらも友人とランチに行かずにはいられない社会人の我々も似たようなものです。
ランチタイムの使い方はさておき、自立・自律ということと「孤独」という言葉は切っても切れない関係にあります。独りで何かを決めるのは勇気がいることです。自分の頭で考えて、悩んで、決めていく。そういう様子を「ディシプリンがある」と表現していました。訓練とか紀律とか訳されます。(自律というとautonomyという訳語が当てられますが、「律する」という言葉を深く汲めばself-disciplinedとでも表現した方が適切かなと思います)
ディシプリンに関連した部分をもう少し引いておきます。
本当はこういう時代だからこそディシプリンを持つことや、そのために勉強することが必要なのに、たとえばメディアが観念の必要性をいうことはまずない。
象徴的だったのは、この間テレビでリストラされちゃった元銀行員が栃木かどこかでトマト農家をはじめた、という話をやっていたんです。当然うまくいきませんよ。トマトづくりにだって、ディシプリンが必要なんだから。
けれど番組は、自分は三十七歳でリストラされて、その後どこにも就職できなくて、今トマトもうまくつくれないけど、太陽の下、家族がいて幸せですといって笑った写真がストップ・モーションになって終わる。この欺瞞ね。幸せなわけないんです、そんなもの。メディアは本来、ディシプリンがなければ何をやってもダメだということを言わなければならないのに、考え方を変えてトマトさえつくれば救われるなんて、犯罪的だと僕は思います。
精神において自立的・自律的であることと孤独であることはイコールではありません。すこし逆説的ですが、自立的であろうとすればするほど人のつながりの大事さを感じることになります。ディシプリンのある人が必要とするつながりは、
もたれ合うのでなく支え合う。
そういうつながりだと思うのです。