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コンセプトノート

366. 感情は自分が創り出している、と考えてみると

目的論

心理学者アルフレッド・アドラーの打ち立てた心理学を紹介する本を読み、アドラーの「目的論」という発想に興味を持ちました。

 〔人は〕何かをする、あるいはしないという目的がまずあって、その目的を達成する手段を考え出す。怒りという感情が私たちを後ろから押して支配するのではなく、他の人に自分のいうことをきかせようとして怒りを使う。また、他の人からの同情を引くために悲しみの感情を創り出すのである。(〔〕は引用者による追記)

岸見 一郎、『アドラー 人生を生き抜く心理学』(日本放送出版協会、2010年)

たとえば「口べたですね」と言われてカチンと来た、つまり怒りの感情を感じたとします。目的論の立場から考えると、「口べたですね」という発言が怒りの原因だとはとらえないということです。発言に対して何らかの対応をしようという目的を持ち、その目的を実現するために怒りの感情を創り出しているということです。この場合であれば、目的は「発言を撤回させよう」とか「礼を失していたと謝罪させよう」といったことでしょう。

たしかに「口べたですね」と言われたらかならず怒るとは限りません。目上の人からそう言われたら「たしかにそうだな」と謙虚に反省したり、場合によっては感謝の感情を持ちます。

アドラー後に興った認知心理学でも、できごと→感情ではなく、できごと→認知→感情 といったフレームワークで感情を理解します。しかし認知がある種の自動フィルターのようにとらえられているのに対し、アドラー心理学(というか、わたしがこの本から理解した内容)では、積極的な意志の存在を仮定しているように思えます。

本書では、夢のお告げに従って行動して災厄を免れた人の例が出てきます。これも目的論で考えると、夢のお告げが幸運の原因なのではありません。眠りにつく前から自分の中では行動を決めていたのであって、『既に到達していた結論を支持するためにある種の感情、あるいは情動を創り出したにすぎない』(p42)ということになります。

EQ理論でも情動が起きる原因を考えますが、このようにすべての感情は特定の目的の産物であるという発想に立って考えてみたことはありませんでした。著者は『自分の行為も含めて、この世界の事象を目的論的に見始めると、それまで見えなかったことが見えてくる』と言います。

自分の隠れた意志を探る

さっそく試してみました。「対人関係における感情はすべて、特定の目的のために自ら創り出しているのだ」と仮定して、いろいろな感情を考えてみたのです。いくつか共有しましょう。

分かりやすいところでは「子どもが部屋を散らかしていた → 怒り」。よくよく振り返ってみると、たしかに一喝する機会を待っているような心情になっているときがあります。静かに「散らかっているよ」と言えば言えたのに。相手を支配したいという目的が怒りの感情を創り出しているのかなと思えます。

難しかったのは「講壇から、不機嫌そうに腕を組んだ人を見つける → 不安」。不安になるのは明らかにその人のせいであって、わたしが目的を持って不安な感情を創り出しているとは考えづらい。講師としては不安な感情をその人に見せることはありませんし、不安がって見せたところで何の効果も発揮しないでしょう。

相手を動かすためにではなく、自分を動かすために不安を創り出していると考えると、解釈が可能になりました。たとえば「あの人には特別に注意を払っておく」という目的が、不安という感情を創り出したと考えられます。また「もっと勉強・訓練する」という目的も、不安という感情を創り出しそうです。

感情は受動的に起きるのではなくて、何らかの目的が創り出しているのだと考えてみる。これは、自分の隠れた意志のようなものを感じ取ることができる、面白いエクササイズになりました。