今回は『失敗の科学』から、印象に残った言葉やフレーズを引用しつつ、短いコメントを添えてみたいと思います。
『罰則を強化したところでミスそのものは減らない。 ミスの報告を減らしてしまうだけだ。』
航空業界では、ミスを業界で共有し改善していく文化が育まれているそうですが、それを支える具体的な仕組みとして、たとえば
『パイロットはニアミスを起こすと報告書を提出するが、 10日以内に提出すれば処罰されない決まりになっている』
そうです。
ミスをすることではなく、その共有を怠ることが罪である。鮮やかな事例です。
『問題は当事者の熱意やモチベーションにはない。改善すべきは、人間の心理を考慮しないシステムの方なのだ。』
執刀医(機長)が目の前のトラブル解決に集中しすぎて、患者を死なせて(飛行機を墜落させて)しまう。そういった事例を引き、著者はこう述べています。
『集中力は、ある意味恐ろしい能力だ。ひとつのことに集中すると、ほかのことには一切気づけなくなる』。
しかし集中力の性質からして、個人の力でこれを防ごうというのは無理筋で、熱意や意欲や根性に頼っても改善は図れません。仕組みで防ぐという発想は、「第三の要素で失敗を防ぐ」とも呼応します。
『認知的不協和は足跡を残さない。』
認知的不協和、つまり自分の信念と矛盾する事実を無視・否定しがちな傾向が人を失敗に導きます。しかしこれを捉えるのは至難の業だということが、目を引く表現で書かれていました。この文の続きも引用します。
自分にとって不都合な真実をどの時点でありのままに受け入れられなくなったのか、どの時点で正当化が始まったのか、辿る術はない。決して誰かに無理強いされるわけではなく、すべては心の中で起こる。まさに、自分で自分を欺くプロセスだ。
『考えるな、間違えろ』 『「一発逆転」より「百発逆転」』
印象的な見出しがいくつかありました。これは訳者と編集者の工夫に負うところが大きいようです。たとえば『「一発逆転」より「百発逆転」』という見出し、原著では単に “Marginal Gain”(小さな改善) となっていました。
『何か間違いが起こると、人はその経緯よりも、「誰の責任か」を追及することに気をとられる傾向がある。』
非難の心理は、失敗の真因追求を、したがって改善を、妨げます。共感した文章を、もう一つ。
『「悲劇が起こった(あるいは危うく起こりそうになった)のだから、誰かが罰せられるべきだ」と非難合戦を始めるのは、驚くほど簡単だ。』
『成長型マインドセットの人ほど、あきらめる判断を合理的に下す。』
成長型マインドセットとは、知性や才能は努力で伸ばすことができると思う心的傾向(逆に、知性や才能は先天的な因子で決まる割合が大きいと思うのは、固定型マインドセット)。提唱者キャロル・ドゥエックの『「やればできる!」の研究―能力を開花させるマインドセットの力』を嚆矢として、派生的な研究や一般書を多く見かけるようになりました。
「やればできる!」型の人は、さぞあきらめが悪いのだろうと思いきや、そうではないようです。
ドウェックは言う。「成長型マインドセットの人にとって、『自分にはこの問題の解決に必要なスキルが足りない』という判断を阻むものは何もない。彼らは自分の〝欠陥〟を晒すことを恐れたり恥じたりすることなく、自由にあきらめることができる」
彼らにとって、引き際を見極めてほかのことに挑戦するのも、やり抜くのも、どちらも成長なのだ。
「引き際」にも興味があったので、最後の一文は示唆的でした。代替選択肢を洗い出し、最善の選択肢を絞り込んだうえで、「いまやっていることと最善の代替選択肢と、どちらが自分の成長に寄与するだろうか?」と考えてみれば、引き際・方向転換の判断がしやすいかもしれません。
『神コンプレックス』
『ベテラン医師が、自分の失敗を受け入れられない、あるいは失敗が起こり得ることさえ認められない心理状態は、ときに「神コンプレックス」と呼ばれる』。どこかで使ってみたい、と思いました。
『事前検死 (pre-mortem)』
好きな研究者の一人、ゲイリー・クラインの造語。このアイディアは20年前に訳出された『決断の法則―人はどのようにして意思決定するのか?』で提唱されています。
プロジェクトが終わる前に『あらかじめプロジェクトが失敗した状態を想定し、「なぜうまくいかなかったのか?」をチームで事前検証していくのだ。(略)まさに究極の「フェイルファスト」手法と言える。
『「真の無知とは、知識の欠如ではない。学習の拒絶である。」』
哲学者カール・ポパーの言葉。しびれます。
学習の拒絶とは、どういうことか。本書で挙げられていた例を要約します。
「創造説」では、天地創造は紀元前4004年のできごとです。しかし、生物の化石ができた年代を調べる(放射性炭素年代測定法などの)手法が開発され、紀元前4004年より前に生物がいたのは揺るぎない事実と見なされるようになりました。創造説を擁護する自然科学者はこれに対し、「天地創造は紀元前4004年だが、神が意図的に古い化石を作った」と主張しました。
どんな事象に対しても「それは神のみ業」と言えてしまうとすると、この主張は真偽を確かめられない、つまり検証ができません。検証できない(=反証可能性がない)系には進歩がなく、停滞していきます。これが学習の拒絶です。
無知を脱するには学習すること。そして学習とは仮説検証のサイクルを回すことに他ならず、それには常に失敗の余地を認めることが含まれます。
著者は「失敗を科学する」姿勢を貫いています。おそらくはそれを汲んで、”Black Box Thinking” というキャッチーな原題を『失敗の科学』としたのは、出版者の英断だと思います。さらに汲むならば、著者がほんとうに言いたかったのは『失敗こそ科学』というメッセージだったかもしれません。