ケーススタディ「A社からの脱出」
あなたは新卒で大企業A社に入社し、X年が経ちました。さまざまな理由から、A社は地獄だと感じるようになり、起業を検討しています。
とはいえ、起業の失敗もまた地獄です。A社のような大企業への再就職は二度とできないでしょう。あなたはこう考えます。
「成功したときの嬉しさと失敗したときの悲しさは比較しようがないが、まあ同じくらいと考えよう。今年アクションを起こしても、成否はせいぜい半々。しかし一年間事業計画を練ったり人脈を確保して、失敗の確率を半分に減らせたとしたら?」
簡単に計算をしてみると、結果は下の表の通り。明らかに、今年よりは一年後の期待値のほうが高いことが分かります。今年一年をA社で過ごすのは苦痛ですが、再挑戦が難しい日本社会の現状を考えれば、一年間待つことのデメリットは小さいでしょう。
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┃起業する年│ 失敗 │ 成功 │期待値┃
┠─────┼─────┼─────┼───┨
┃今年 │ 1/2×(-1)│ 1/2×(+1)│ 0 ┃
┠─────┼─────┼─────┼───┨
┃1年後 │ 1/4×(-1)│ 3/4×(+1)│ 1/2 ┃
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さて一年後。順調に起業準備は進みました。念のため、昨年と同じ計算をしてみたところ……
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┃起業する年│ 失敗 │ 成功 │期待値┃
┠─────┼─────┼─────┼───┨
┃今年 │ 1/4×(-1)│ 3/4×(+1)│ 1/2 ┃
┠─────┼─────┼─────┼───┨
┃1年後 │ 1/8×(-1)│ 7/8×(+1)│ 3/4 ┃
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合理的に考えれば、あなたは起業を翌年に延ばすべきです。
何年経っても同じ結論になることは、予測がつくと思います。差は小さくなるものの、先送りが常に合理的な選択です。
ですからあなたが合理的であれば、毎年準備をしつつも決断を先送りするでしょう。もっと合理的であれば、このような帰結を見越して、何もせず地獄(A社)に留まると決めるでしょう……しかし、何かがおかしいですね。
唯一の合理的選択は非合理的にふるまうことらしい
これは『論理学』という本からの翻案です。オリジナルを(やはり多少翻案のうえで)要約すると、こんな感じです:
「地獄に落ちたあなたに、魔法のコインが与えられました。コインを投げて表であれば、天国に行けます。裏であれば、そのまま永遠に地獄に留まります。このコインは、1日ごとに裏の出る確率が半分になっていくことが分かっています。あなたはどうしますか?」
合理的なアプローチでは、手に脱出のチャンスを握っているにもかかわらず、そのチャンスを行使する機会は永遠に訪れない(なぜなら、つねに1日先のほうが期待値が大きいから)という、奇妙な状況に陥ってしまいます。
本書ではこのパラドックスを解き明かす方法は語られず、ただこのように結ばれています。
『毎日を合理的に行動し、次の日まで待つならば、けっしてコイン投げをする日は来ず、永遠に地獄にとどまることになってしまう。どの日であっても、とにかくコイン投げをしたほうがましに違いない。つまり、唯一の合理的選択は非合理的にふるまうことらしいのだ!』
この事例は、パラドックスが生じるように、慎重に逃げ道がふさがれています。
しかし冒頭の「A社からの脱出」では、現実的な文脈に翻案したがゆえに、読みながら「いや、自分ならこういう変数を取り込んでどこかで決断できる!」と感じた方も多かったのではありませんか。
わたしも元の事例と比較することで、陥りがちな「思考の枠」をいくつか見つけられたように思いました。
大きなところでは、「一年間待つことのデメリットは小さい」という判断です。これは、われわれの持ち時間が一年間を短いと思わせるほど十分に長く残っているという前提にもとづいています。
本の事例では、主人公は無限の地獄にいるので、決断を先送りすることのデメリットは相対的に無視できます。一方「A社からの脱出」では、職業人として過ごせるのは、うまくいっても50年程度であることに思いをいたせば、一年間待つことのデメリットは、小さいものではなくなります。「枠」の外に出て考えるきっかけをつかめます。
「自分への弔辞を書く」といったエクササイズは、この「残り時間はまだまだあるはずだ」という枠を外すのに有効なのでしょうね。
もう一つ、根本的なところで「(事前に予測される)期待値の大きいほうを選ぶ」という合理的な考え方そのものを疑うべき状況が、あるのかもしれません。たとえば「つねに先送りが合理的な状況に陥ったら、何かの枠にはまっている可能性を考えてみる」とか、いっそ「期待値の大小で判断せず『変える』ことを無条件で選ぶ」といったルールを自分に課すことで、袋小路に陥ってしまうことを防げるかもしれません。ここはもう少し考えてみたいと思います。