カテゴリー
コンセプトノート

781. 創造力の源

無心に、一気に、傑作をつくりあげる。が、省みない

神経心理学者であった山鳥 重氏は、著書 『「気づく」とはどういうことか』で、アメリカの神経内科医オリバー・サックスの『火星の人類学者』に登場する少年のエピソードを紹介しています。

サックスが取り上げている少年は、社会性に欠け、言語の発達も不十分で、独立して生活できるだけの能力を持っていません。しかし、絵の能力は傑出していて、故郷のイギリスではBBCで放送もされ、作品集も発行され、ある専門家は、この少年をおそらく英国最高のこども芸術家だと評価しています。

この少年は絵画的な記憶力が高く、一度目にした対象を精密に再現できるとのこと。しかし無心に一気に絵を描きあげてしまうと、作品には興味をいっさい示さないそうです。

ふつうは、絵画にかぎらず何かの作品を作るとなると、作っている最中にはいろいろ検討するし、作り終えたら自分で眺めたり誰かに見せたくなったりなるものだと思います。いったいなぜなのか。

描く=思う(思ったことを描くのではない)

山鳥は神経科学や心理学の知見を組み合わせて、ある行為が選択されるまでのこころの働きについて明快な仮説を立てています。大まかにまとめれば次のような流れです。

コア感情 → 感情 → 心像 → 思い → 行為

「意識」とは左端のコア感情から思いへの流れです。コア感情は意識下の感情で、人が感知できるのは感情から右側。

意識は0.1~0.2秒という短い間隔で立ち上がっては消えていく波のような現象で、その連なりが「今・ここ」という感覚をつくっています。特定の意識をつかまえてクリアな心像をつくる力が「注意」であり、特定の行為に向けて注意を持続させる思いの力が「意志」。

意識の起点が意識下のコア感情ということは、何が意識に立ち上がってくるかは選べないわけです。とはいえ無秩序というわけでもありません。コア感情の源は、内臓から大脳にいたる神経系に蓄えられたパターンすなわち記憶であり、そこから立ち上がる意識の連鎖が「今・ここにいる自分」に一貫性を与えています。

また、すべての行為が明確な思いのもとに行われるわけではありません。あらゆる「運動(神経過程)」と「アクション(心理過程)」は共に生じるという説を山鳥は採用しています。ややこしいのですが、ここでいうアクションとは身体を動かすアクションではなく心の動きのこと。先に 心像 → 思い → 行為 と矢印で切り分けましたが、実際には心像を形成する時点で行為が入り込んでいるというイメージでしょうか。

たとえば「猫」という言葉を耳にすると、「ねこ」という言葉の響きがもたらす心像(聴覚心像)や、言葉によって記憶から呼び起こされる心理過程(猫にまつわる記憶・感情)が合わさって、著者がいうところの「語心像」が形成されます。これらはアクション(心理過程)ですが、同時に、たとえ声に出さずとも、発音運動(神経過程)が随伴しているというのです。

そういった理解を踏まえると、少年が自分の作品を省みなかった理由もわかってきます。サックスは、彼が記憶に頼って描く絵が毎回少しずつ違うことから『カメラのような視覚性の記憶力を持っていて、その記憶を機械的にただ取り出しているのではなく、彼のこころが経験しつつある心像を描きだしている』と解釈しています。

著者は、少年が自分の絵に興味を持たないのは先の流れで言う「思い」が意識に上っていないからだろうと述べています。

彼の絵への「思い」は描画という行為の中に展開し、完結します。でき上がった絵という「結果」でなく、描画行為という「過程」の中に、彼の思い、彼の世界理解、それも高度な理解が開示され、意識に残されることなく消えていきます。

知性は創造性でもある

著者はこう続けています。

この少年の絵画的才能はたまたま周囲の助けによって引き出されましたが、たいていの場合、外部からは見えないまま、眠り続けているのではないかと思われます。少年の絵画は、この少年の「知性」を表しています。「知性」という言い方がまずければ「こころの力」と呼んでもよいし、こころの想像力(創像力) と呼んでもよいと思います。同じことです。

(太字は原文では傍点)

本書では、知性の働きとは心像の働きであると定義されています。その知性を「創像力」と呼び替えていたのが印象的でした。

というのは、心像がその人固有のものである以上、心像を具体的な絵画として描き出す「創像力」は「創造力」でもあると思うからです。

たとえば、創造性の開発やセラピーのために、何も考えずに浮かんだことを書くエクササイズがあります。これは先述の「語心像」を描くことにあたると思います。

感じたことを書く、のではなく、感じる=書く状態になるまで書く。それは「創像力」の発揮であり、自分の「知性」へのアクセスです。

こういった没我的な感覚というと「フロー」が想起されます。フローと呼ぶにはあまりに極北的な境地かもしれませんが、本書ではオイゲン・ヘリゲルの名著『弓と禅』が紹介されています。

ヘリゲルは修行を通じて、弓を引く動作を意識しない境地を獲得するに至ります。少年は持って生まれた才能で(おそらくは)苦労なく絵画的心像を形成できましたが、ヘリゲルは鍛錬によって運動的心像を形成したといえるのではないでしょうか。

おりしもウィルスの感染を防ぐために外出の自粛が要請されています。家にいる時間を使って、考えずに書いたり描いたりしてみようかと思っています。

コメントを残す