似ているか、違うか
スタンフォード大学などで異文化コミュニケーションなどを教えているスティーブン・マーフィ重松の『スタンフォード大学 マインドフルネス教室』 (講談社、2016年)を読みました。氏が『自己と他者、両者の関係についての理解の骨組みづくりのために、私はヘンリー・マレーとクライド・クラックホーンが提唱したシンプルなモデルについて教えている。』といって紹介していたのは次のようなリストです。
- 人間一人ひとりはある点で、
- a. 他のすべての人間と似ており、
- b. 他のある種の人間と似ており、
- c. 他の誰とも似ていない。
人格の類似と相違を考えるための3つの視点 – *ListFreak
調べてみると、出典は1948年の “Personality in nature, society, and culture“という書籍のようです(古すぎてAmazon.co.jpから書影を取ってこられなかったので、Googleブックスにリンクしています)。ちなみに次のような文章でした。
EVERY MAN is in certain respects
a. like all other men,
b. like some other men,
c. like no other man.
たしかに拍子抜けするほどシンプルです。でも重要な視点を与えてくれるようにも思えます。氏は『私たちの自己理解および他者理解は、この三つの視点を意識にとどめて、そのバランスを取れるかどうかで決まるのだ。』と書いています。
残忍な殺人鬼や独裁者の話を聞くと「どうしてそんなことができるのか、理解できない」と思います。そのときには、a. の視点を失っています。【人間はある点で、他のすべて人間と似ている】のだから、特定の状況に置かれれば自分も同じようにふるまうかもしれません。
逆に、近しい人が思いがけない行動を取ると「変わった」「裏切られた」と思います。そのときには、c. の視点を失っています。趣味嗜好が同じでも、血縁があっても、【人間はある点で、他の誰とも似ていない】のだから、まったく同じ状況に置かれても、とる行動は違ってしかるべきです。
人は(わたしは)だいたいの場合、お互いの属性の類似点と相違点を見つけて、b. の視点で都合のよいように解釈しているように思います。共感できそうだったら「やっぱり日本人はそう考えるよね」、共感できそうになければ「やっぱり挫折を経験していない人には、わからないことがあるよね」、そんな感じです。何しろ【人間はある点で、他のある種の人間と似ている】のですから、どうにでも解釈できるわけです。
われわれは、似ていると同時に違ってもいる。氏は「似ているか違っているかという議論は現実とかけ離れた二文法なのだ」と述べています。
“われら”と“かれら”を分かつもの
味方か敵か、“われら”か“かれら”かという区分は、b. の中にあります。“われら”同士でも c.の視点では違っている一方、“かれら”とも a. の視点では似ているのです。
“われら”と“かれら”を分かつ属性をうまく捉えたリストを、同書の後半に見つけました。神経学者にして膨大な一般向け著作のあるオリヴァー・サックスが、自伝『道程』の中で、幼少時に家族と引き離された経験のある自分は、3つのBに問題を抱えていると語っています。
- Bondig ― 心のふれあい(を作りづらい)
- Belonging ― 帰属意識(を持ちづらい)
- Believing ― 信じること(を共有しづらい)
社会に適応しづらい人が抱えている3B(オリヴァー・サックス) – *ListFreak
Belongingは国や企業や家族、Believingは宗教や信条や嗜好と考えればよいでしょう。Bondingは、BelongingやBelievingといった共通の属性がもたらす結果でもありますし、単純接触効果を考えれば「何回か会ったことがある」だけでも生まれるものでしょう。
共感的理解のレンズ
話を聞く際には、共感的理解が求められます。重要なのは、相手の感情を理解しつつ、相手の感情に飲み込まれないこと。相手と同一化してしまわないことだと、よく言われます。ニュアンスとしてはよくわかるのですが、指針となる言葉が欲しいと、つねづね感じていました。
冒頭の3つの視点は、言葉のシンプルさ、枠組みの確かさから見て、じゅうぶんに現場で使えるリストのようです。
『私たちの自己理解および他者理解は、この三つの視点を意識にとどめて、そのバランスを取れるかどうかで決まるのだ。』
この三つの視点を意識にとどめて、話を聞いてみたいと思います。