共感のスポットライト効果による限界
『道徳的観点からすれば、共感はないに越したことはない。』というユニークな主張をする、ポール・ブルーム『反共感論―社会はいかに判断を誤るか』(白揚社、2018年)を読みました。この文が含まれる段落を引用します。
本書で私は、共感と呼ぼうが呼ぶまいが、他者が感じていると思しきことを自分でも感じる行為が、思いやりがあること、親切であること、そしてとりわけ善き人であることとは異なるという見方を究めていく。道徳的観点からすれば、共感はないに越したことはない。
著者は共感を「他者が感じていると思しきことを自分でも感じる行為」と定義しており、共感を情動的/認知的と分けたときの前者を指すとも述べています。
情動的/認知的共感とは、他の本から引くと、次のような定義です。
- 【情動伝染】 無意識的・自動的に起きる、身体・神経レベルでの共振・同期。
- 【情動的共感】 自他融合的。情動に影響され、半ば自動的に利他行動を起こさせる。「いま・ここ・私たち(内集団)」に強く働く。
- 【認知的共感】 自他分離的。相手の心的状態を推論する。
共感性の3階層 – *ListFreak
なぜ、道徳的観点からすると、情動的共感が不要なのか。情動的共感は、先のリストで『「いま・ここ・私たち(内集団)」に強く働く』と説明されているとおり、注意を向ける対象を偏らせてしまう副作用があるからです。
共感はスポットライトのようなものである。つまり、焦点が絞られ、自分が大切に思っている人々は明るく照らし出し、見知らぬ人々や、自分とは違う人々や、脅威を感じる人々はほとんど照らし出さないスポットライトなのだ。
『感情同一化の副作用』とでも題しておけば、それほど違和感のない主張だと思うのですが、なぜわざわざ『反共感論』(原題も “Against Empathy”)と大きな主語で論じるのか。
陰気な科学と陽気な科学
通読して、どうやら「他者が感じていると思しきことを自分でも感じる」共感的な行為が道徳的だとして無条件に礼賛される一方で、論理的・客観的に考えることの価値が過小評価される風潮に一石を投じたいという思いがあるように感じました。
その例として、印象的なエピソードが紹介されています。
経済学がときに「陰気な科学 (dismal science) 」と呼ばれる理由を考えてみよう。これは、音楽や詩などの「陽気な科学 (gay science) 」と対比するために、一九世紀にトーマス・カーライルが考え出した侮蔑的な言い回しである。
カーライルはこのとき、自分が支持するある制度について、経済学者たちと対立していました。人間の営みを数字・数式に置き換えてしまう経済学を「陰気」と呼ぶことで、非人間的なニュアンスを与えることに成功しています。さすが一流の文人だけあって印象的なレトリックです。
では、経済学者が反対していたものとは何か?それは奴隷制度である。カーライルは、経済学者が奴隷制度に反対したためにろうばいしたのだ。西インド諸島への奴隷の導入を支持していた彼は、それを激しく非難した経済学者にいらだっていた。
経済学者や、人間の営為に対して彼らが取る冷淡なアプローチを嘲笑したくなったときや、誰かが「強い感情=善きもの、冷淡な理性=不快なもの」などという図式を振りかざすのに出くわしたときには、このエピソードを思い出すとよい。これまで見てきたように、現実世界では、真実はたいてい、その図式の逆である。
温かい知能と冷たい知能
このエピソードは、わたしに、以前に書いた『冷たい知能、温かい知能』を想起させました。EI(感情的知能)理論の提唱者が、EIにPI(人格的知能)とSI(社会的知能)を加えた知能群に対して、他の知能と区別するために「温かい知能」というカテゴリを案出したのです。
冷たい/温かいと区分けされると、陰気/陽気に似て、なんとなく「温かい」ほうが好ましいように感じてしまいます。しかしそうではありませんし、著者らにもそういった差別的な意図はないはずです。このレトリックがもたらすバイアスは意識的に補正せねばと感じさせられました。
共感は無用だが思いやりは有用
ブルームは、「道徳的観点からは」「情動的」共感を無用としつつ、認知的共感の発露である「思いやり」は道徳のために有用だと述べています。
(情動的)共感を抑制し、思いやりを発揮するとはどういうことか。
たとえば、自分が教師だとして、クラスに自分の子供がいた場合、テストの採点をどうするか。
情動的共感の声だけに従えば、良い成績を収めたいというわが子の気持ちを汲んで、甘い採点をするでしょう。しかし実力が正当に評価されないことは、長期的に本人のためになりませんし、他の子供から見ても公正とはいえません。ですので、名前を隠すなど匿名化して採点をするか、他の教師に採点を依頼するなどするでしょう。
……ここまで書いて終わろうとしていたのですが、ちょうど寄ってくれたご近所さんが、逆の、つまり「情動的共感はあるが思いやりがない」エピソードを提供してくれました。
近所のYという医者が「頼りない」という評判なのだそうです。なぜか。たとえば、診察の結果、肉を控えるよう言われた患者が「肉が大好きなんです」と言ったとします。するとY先生は「それはかわいそうに……」と共感してしまい、「まあ、少しくらいはいいですよ。いい薬もありますから」と、言うことが変わってしまうそうなのです。
患者が大好きな食べ物を我慢するストレスと、食事制限の効果とを勘案したアドバイスならよいのですが、常にそんな対応なので、「人が善すぎて、厳しいことが言えない先生」だと見なされているようです。
(情動的)共感がもたらす「いま・ここ・私たち(内集団)」へのバイアスに流され、長い目で患者にとって最善のアドバイスをし損ねているとしたら、Y先生は、患者への思いやりに欠けていると言わざるを得ないでしょう。