最近読んだアル・ゴア氏のインタビューで、「倫理的な想像力」という言葉がありました。一見すると「論理的な思考力」の対極にあるようですが、これらはセットで使われる力であるべきと考えます。そこで、まず曖昧に理解されがちな「論理的思考」という言葉を定義して、その後で「倫理的な想像力」との関係を考えてみます。
「証明のための論理」と「行動のための論理」
「論理」という言葉には、大まかに2つの意味があります。ここでは「証明のための論理」と「行動のための論理」と名前を付けることにします。
「証明のための論理」は、数学の一分野です。例えば記号論理学と呼ばれる分野。これは何かを証明すること、まごうかたなく「真」であると言うことに特化しています。
我々が仕事の上で使う「論理」はそうではなく、「行動のための論理」です。正解は無いと分かっている中で、どの道を進むべきか意思決定をしなければならない。その根拠を組織で合意するために、客観的で妥当性の高いものにしなければならない。それを支えるのが「行動のための論理」です。
「行動のための論理」は、「証明のための論理」からすると不完全です。例えば「帰納法」。我々が数学の時間に習った帰納法は「証明のための論理」です(※1)が、我々が日々の仕事で使う帰納法は、「事象を枚挙して共通するルールを見出す」という粗っぽいもの。「証明のための論理」の立場からは正しいとは言えません。にもかかわらず、なぜ「行動のための論理」が必要なのか。
論理的思考は、行動のためにある
社員の採用、事業開始あるいは撤退などなど。我々が仕事で直面する意思決定について「証明のための論理」に則って考えると、「どちらともいえない」がほぼ常に「論理的に正しい態度」になってしまいます。正しくなければ行動しないとすると、身動きが取れなくなってしまう。一方で、リスクを取って行動しなければリターンがないこともまた「証明のための論理」的に正しい(※2)。ということは、リターンを得るためには、「証明のための論理」的に考えれば十分論理的でないことを知りつつ、行動をしなければなりません。「行動のための論理」が求められる理由の一つがここにあります。
「行動のための論理」が必要なもう一つの理由は、決定的な(元に戻せない)破局が訪れるリスクを回避するため。これはリターンを得るための意思決定よりもさらに根拠を得にくい。その典型が、「来るかもしれない自然環境の破壊を避けるために何か行動するべきか。するとしたら何か」といった意思決定です。
倫理的な想像力が、論理的な思考力を駆動する
もちろん客観的で妥当性の高い分析は必要ですが、それだけでは詰め切れないこともまた、最初から見えています。ゴア氏が「倫理的な想像力」を持ち込んでいるのは、その限界を補うためでしょう。しかし、これは人の情緒に訴える効果だけを狙っての発言ではないはず。バックキャスティングという未来予測の手法では、未来を具体的に想像し、○○年にはこの問題を解決すると決めてかかることで、より客観的な分析のための視点や現実的な行動計画を見出そうとします。強い意志が、豊かな想像力が、行動のための論理を強くするということです。
誰しも「当事者になって初めて相手の論理が腹に落ちた」経験があると思います。相手の身になってみるまでは「見れども見えず」状態だったということです。「倫理的な想像力」を働かせるということは、未来の自分や未来の世代の身になって考えるということ。もちろんそこでも、未来のために工業化の歩みを止めないことこそ倫理的という立場もあるでしょう。論理を戦わせるとは、哲学の攻防でもあるのです。
(※1)ややこしいことに、我々が数学の時間に習った帰納法は、論理展開としては演繹法ですね。
(※2)参考:『リスク―神々への反逆』