科学的に価値がある、とは
化学者から哲学者に転向したマイケル・ポラニーは、著書『個人的知識―脱批判哲学をめざして』で「知的情熱」という章を立てています。科学的発見における情熱の役割を整然と、そして情熱的に論じていました。
私が示そうと思うのは、科学的情熱は単なる心理学的副産物ではなくて、化学に不可欠の要素を寄与する一つの論理的機能を持つということである。
マイケル・ポラニー 『個人的知識―脱批判哲学をめざして』
その章に「科学的価値」という節があります。科学の対象となる事象はいくらでもあるなかで、科学者の美的感覚はどのようにはたらき、探究すべき対象を選り分けるのか。
ポラニーは『ある断定は、次のものを保有することが多いほど、科学の一部として受容され、またそれだけ科学にとって価値あるものとなる』として、3つの因子を挙げています(「断定」という言葉は科学者の発見や主張といった意味合い。本ノートでは便宜的に「発見」と置き換えます)。
- 確実性(正確さ)
- 体系的関連性(重大さ)
- 内在的興味
科学的価値の3因子 – *ListFreak
「確実性(正確さ)」とは、その発見が、何らかの規則を見出したかということ。規則的とは、ある事象が再現できる(reproducible)か再起を予想できる(predictably recurrent)こと。再現性があれば後から、また他者によって検証できます。
「体系的関連性(重大さ)」とは、その発見が、既存の知識を拡張したり誤りを正したりといった、人類の知の体系に連なるかということ。「確実性」が高い発見でも、誰も意味や使いようを見出せなければ、価値を認められません。たとえば中学の理科で学ぶ「メンデルの法則」は彼の生存中には注目されず、後年複数の学者が「再発見」したことで遡って価値が認められました。
「内在的興味」とは、その発見が、人の興味を引くかということ。歴史、人間集団の行動、人間の心理は、再現することも再起を予想することも困難です。したがって歴史学、社会学、心理学の発見は「確実性」において限界があります。しかし人は人の行動に興味を持つので、対象の「内在的興味」が「確実性」の低さを補います。
何を学ぶかをどう選ぶか
確実性、関連性、興味。これは「価値」を推し量る基準として援用できそうです。
たとえば、ちょうど年末ということもあって、来年は何を学ぶのに時間を使おうかと考えていたので、この3因子で考えてみます。仮に「ストーリーテリングの技法」か「リーダーシップ理論」を学ぼうかなと考えていたとします。自分にとって価値があるのは、どちらか。
3番目の「内在的興味」がまっさきに、そして自動的にはたらく因子でしょう。自発的に思いついたテーマならもちろん興味があるはずですが、よく考えてみると「学んでおいたほうがいいのでは」といった計算が働いていることもあると思います。わたしでいえばストーリーテリングは純然たる興味で、リーダーシップは計算づくの興味が入っています。
1番目の「確実性」は、自分にとっての再現性があるか、つまりそれを学んで自分が再現できそうかということ。これは、体系だった知識にアクセスできるか、よい教師を見つけられるか、実践の場があるかといったサブ因子を考えたうえで、めざすレベルに到達できそうかを判断することになるでしょう。
2番目の「体系的関連性」は、自分の知識や技能に関連づけられそうかということ。学ぶ目的が明確かという問いと、ほぼ同義に扱えるように思います。大人の学習の場合には、ここをじっくり考える必要があるように思います。
この関連づけには2種類あります。一つは、学ぶ過程でこれまでの知識や技能が活かせるかという側面。もう一つ、より重要なのはと、学んだことを自分の「知の体系」にどう位置づけられるかという側面。
現代の科学者が「先人の肩に乗る」ことで遠くを見られるように、個人のレベルでも、それまでの蓄積の肩に乗ることで、より遠くまで見通せたり深く考えられたりするでしょう。わたしでいえばストーリーテリングやリーダーシップを学ぶことで、今まで取り組めなかった問題に立ち向かえるようになるはずです。
最後に考えておきたいのは、乗るべき肩がないケース。目的はないが興味はある。つまり強い「内在的興味」に突き動かされて、自分の「知の体系」とは何のつながりもないけれど、ただ学んでみたいようなケースです。ポラニーの基準からは外れてしまいます。どうすべきか。
そこまで強い「内在的興味」が持てるのであれば、それだけで十分な価値とみなして、学んでみるべきと思います。どういう形でかはわからないとしても、長期的には自分の「知の体系」に組み込まれると期待していいでしょう。人に備わっている、人生に一貫性をもたらそうとする性質(Narrative identity、物語的自己同一性)は、まさにそのためにあるのだと思います。