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コンセプトノート

236. ビジョンステートメントとしての「読書子に寄す」

昔から、それこそ高校生の頃から、文庫などのシリーズものの書籍の最後に付いている「発刊の辞」を読むのが好きです。事を興そうとする人の決意と高揚感とがあれほど端的に表れている文章は、他にはなかなか見当たりません。

なかでも、岩波茂雄氏による「読書子に寄す ―岩波文庫発刊に際して―」。すでに著作権が消滅しているので、たとえば青空文庫で全文を読むこともできます。

事業やプロジェクトを始めるにあたり、リーダーはビジョンを示します。「読書子に寄す」は文章の調子がよいだけでなく、ビジョンステートメントとして優れています。これを読んだ参画メンバーは大いに奮い立ったに違いありません。そこで、青空文庫から全文を引いた上で構成を分析してみたいと思います。

●問題提起(高いレベルで)

 真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。

●使命(問題提起に呼応するかたちで)

岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。

●解決すべき問題の定義(具体的に)

近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか。さらに分売を許さず読者を繋縛して数十冊を強うるがごとき、はたしてその揚言する学芸解放のゆえんなりや。吾人は天下の名士の声に和してこれを推挙するに躊躇するものである。

●行動の宣言(事業概要。何をするか、何をしないか)

このときにあたって、岩波書店は自己の責務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十数年以前より志して来た計画を慎重審議この際断然実行することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。この文庫は予約出版の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする。

●長期展望・決意

この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たさしめることを期する。

●参加の呼びかけ

芸術を愛し知識を求むる士の自ら進んでこの挙に参加し、希望と忠言とを寄せられることは吾人の熱望するところである。その性質上経済的には最も困難多きこの事業にあえて当たらんとする吾人の志を諒として、その達成のため世の読書子とのうるわしき共同を期待する。