サンダルを作る
ジョッシュ・ウェイツキンは、16歳でチェスの全米ジュニア選手権を制した「神童」。しかし22歳を目前にして太極拳を習い始め、28歳の誕生日には世界選手権で優勝してしまいます。その彼が、自らの熟達へのプロセスを掘り下げたのが『習得への情熱』。とても刺激的な本でした。
チェスの試合中、『どんな出来事に出くわしても思考の流れを止めずにいられるようになる』ためには、スポーツでいう「ソフトゾーン」に入る必要があるそうです。これはリラックスしながらも五感と思考が研ぎ澄まされたような状態で、どんなトラブルが起きてもそれを組み入れて利用できます。そうは書いていませんが、フローのような状態でしょうか。
ソフトゾーンについて、彼が何年もずっと教訓にしているというインドの古い寓話が紹介されていました。
ある男が棘の密集した荊(いばら)の道を徒歩で横断しなければならなくなった。このとき彼には二つの選択肢がある。一つはその道を舗装して、そこにある自然を征服すること。もう一つはサンダルを作ること。
ずいぶん普通の話に思えて、少々とまどいました。そもそもチェスの試合の最中に、どんな荊の道(トラブル)があるというのでしょうか。読み進んで答えが明らかになるにつれ、彼の「サンダルを作る」アプローチのすごみが分かってきました。
弾力性のある心を作り出す3ステップ
彼が15、6歳の頃のチェスの好敵手に、ロシアから移住してきたボリスという少年がいました。この少年の心理作戦がすさまじく、テーブルの下で脚を蹴る、チェス盤を揺する、息がかかるような咳払いをする、駒を打ち鳴らす、ロシア語でコーチと話す、などなどの嫌がらせをしかけてきます(脚を蹴ってくるなど、もう物理作戦ですね)。審判に注意を求めても、その時点でジョッシュの心はチェス盤から離れてしまうわけですから、ボリスの勝ちです。イライラを遮断して平静を保とうとしても、羞恥心のないボリスは相手がキレるまで汚い手を打ち続けられます。
このような「汚い手」は、太極拳の試合でも使われます。『これまで僕はありとあらゆる心的状況を、長年にわたって、それもさまざまな成長段階で体験してきた。』と書く彼が行き着いたのが、先述の「サンダルを作る」という技術なのです。その技術は三つの段階からなっています。彼の解説をリスト化したものをお目にかけます。
- 第一段階は、風に吹かれる草の葉のように、自分の気を散らせるものを柔軟に受け流せるようになること
- 第二段階は、自分の気を散らすものを利用して、本来はパフォーマンスを台無しにする根源だったそれをインスピレーションの源に変えること
- 最終段階は、そういうインスピレーションを得られる状況を、自分の心の中だけで再現できるようになること
弾力性のある自立したパフォーマーになるために不可欠なこと – *ListFreak
この最終段階が「サンダルの作り方を覚えること」にほかなりません。先ほどのボリスの例でいえば、自分の気を散らす「汚い手」(およびその反応として生まれる感情)を無視したり抑えつけたりするのではなく、自分の戦略のために利用するということです。ボリス少年に悩まされてから数年、太極拳の試合で同じような汚い手を使われたときには、彼は見事に「サンダルを作る」ことができました。相手の反則技に抗議するのではなく、それを利用して技をかけることで、相手が平静を失って自滅したそうです。
ここでいう「サンダルを作る」とは、即興的に返し技を思いつくことではありません。そのような技を自在に思いつけるような心的状況を、心が激しく揺さぶられているさなかに作り出すということです。本書の後半には、著者なりの方法が詳述されています。
仕事の場でのサンダル作り
仕事でも、感情が揺さぶられるシーンは意外に多いものです。高圧的な上司に叱責を受けたとか、会議で声の大きい人に議論をねじ曲げられたとか、プレゼンテーションの最中にいかにも興味なさげな聞き手を見つけてしまったとか。ふつうは、ただ凹んでしまったり、感情を遮断してやり過ごしたり、カッとなったりしてしまうと思います。
しかし、そういう状況を利用して成果を挙げられる人もいます。たとえば会議の席上、意見を求められて「この件にはもとから興味がないんです」と返されるようなケースがあります。ふつうは「ではなぜ出席しているんだ」というモヤモヤした思いに捉えられますよね。出席している理由を問い詰める、無視する、逆に興味がない理由を傾聴する……いろいろな対応があり得ます。
先日会議ファシリテーションのトレーニングをしていたときにそんな状況になりました。Aさんが、この件には興味がないと言い放ったところ、司会役のBさんはすかさず「ちょうどよかった!」と返したのです。エッと耳をそばだてると、続けていわく「この件は、興味のない人の意見が重要なんですよ」。ムチャを言うなあと一同が笑います。Aさんも思わず苦笑してしまい、いつしか会議の輪に引き込まれていました。
あとでBさんに聞いてみました。「こう来たらこう返そう」といったシミュレーションを行っていたわけではなかったし、そういう発言を予想していたわけでもなかったとのこと。ただ、全員に参加してもらおうと考えていたとおっしゃっていました。
会議に限らず、仕事の現場は状況依存性がとても高く、こうすればかならずうまくいく、というやり方はありません。サンダルを作ろう、つまりソフトゾーンに入り、場で起きたことをすべて利用できる心的状態を作ろうというアプローチは、インプロビゼーション(インプロ、即興劇)を思い起こさせます。そこで、わたしの箇条書きコレクションからインプロに関するお気に入りを一つ紹介して、まとめに代えます。
- “Yes, and”の精神で。
- ほかのみんなをカッコよく。
- 起きたことを、次に活かす。
- 脚本は、一緒に創り上げていく。
- 間違いは、創造への招待状。
- 何が起きても、止まらない。
- この「場」のために、最善を尽くす。
インプロ(即興劇)に学ぶ、複雑な状況におけるコラボレーションの7原則 – *ListFreak